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この世を愛される神
                      東京西バプテスト教会牧師  黒瀬 博
日本のためのとりなしニュースレター2015年4月号付録

 「この世を愛される神」というテーマはとても奇妙に感じられるかもしれませんが、聖書にそう書いてあります。普通、教会では「この世を愛してはいけない」と教えるのではないでしょうか。それでは、なぜ聖書には「神がこの世を愛された」と書かれているのでしょうか。

 ヨハネ福音書3章16節をもう一度読んでみましょう。「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(口語訳)

 非常に不思議な言い方だと思うのですが、今まであまり注目されてこなかったのではないでしょうか。それには原因があります。

 原因のひとつは、「この世」という部分を「わたし」、もしくは「わたしたち」と読み替えて解釈することが広く受け入れられていたからです。「神は、そのひとり子を賜ったほどに、わたしたちを愛してくださった。」と読めば何の問題も無くなります。こういう読み替えをする解釈がしばしば行われます。教会での牧師の説教はこの解釈を前提になされますから、何も問題が生じませんし、疑問を持つ人もいなくなるわけです。

 もうひとつ原因があります。それは翻訳問題です。実は「この世」という翻訳は口語訳聖書独特の表現で、他の翻訳ではそうなっていません。そして、ギリシャ語聖書を見ても、「この世」とはなっていません。それであまり注目されなかったのでしょう。

 ギリシャ語聖書では「この世」とはなっていません。単に「世」(コスモス)となっています。「この」という指示代名詞はありません。しかし、「世」とは「あの世」ではありません。誰がどう解釈しても「この世」のことです。ですから、口語訳聖書の「この世」という訳は誤訳ではありません。こういう訳のことを意訳といいます。「意味を汲んだ訳」ということです。

 さて、聖書の他の個所では「この世を愛してはいけない」とか「この世は悪いものである」とも教えています。それらの個所の説明は割愛しますが、第二テモテ4:10とガラテヤ1:4などです。

 「この世が悪の世であり、この世を愛してはいけない」というパウロの教えは大変わかりやすく、受け入れやすいものです。教会でもしばしば「この世は過ぎ去る」とか「この世は滅びる」と教えますので、普通のクリスチャンはなるべくこの世から離れた生活をすることが神の御旨にかなうと考えます。

 では、どうしてヨハネ3:16で「神はこの世を愛された」と書かれているのでしょうか。「この世を愛してはいけない」と書いたのはパウロですが、それが聖書の中に入れられたのは神の意志であると考えられます。ですから、パウロの教えは正しいのです。しかし、ヨハネも正しいと理解しなければなりません。

 真理というものには両面があるということを私たちはここから教えられます。真理は神の御手の中にあり、人間の考え・思いを超えています。常識ではとらえきれません。それをあえて言葉にすると、相矛盾した表現になってしまうのです。

 そういうわけで、「この世を愛する」ことと、「この世を憎む」こととはどちらも正しく、それぞれ真理の一面であると理解できます。ですから、もし私たちがその一方だけを真理であると考えるなら、間違ってしまうことになります。

 私の目から見ると、今のキリスト教会は、「この世を憎む」ことは教えていますが、「この世を愛する」ことはあまり教えてないのではないかと思えます。真理の両面をとらえるためには「この世を愛する」ことも強調しなければなりません。この世もまた愛すべき存在なのです。

 この世は神の創造の業であり、神の作品です。創世記によると、神がこの世を造られた時、それは「はなはだ良かった」と語られています。この「はなはだ」という強調の言葉を私はとても気に入っています。ヘブル語を見ると、「トーブ ムオッド」となっています。トーブは良いで、ムオッドが「とても」ということです。

 それほど良く出来たこの世界が、アダムの堕落によりすべてが悪となってしまうものなのでしょうか。プロテスタントはなぜか、堕落後の世界はすべて悪であると解釈する人が多いのですが、聖書を良く読めばそうは書かれていないことが判ります。アダムはエデンの園から追放されますが、この世が悪になったとは書かれていません。聖書が書いているのは、(創世記3:17)「土(アダマー)が呪われる」ことであり、(3:16)「産みの苦しみが増す」ことです。アダムとイブは楽園から追放されますが、神はふたりのために獣の皮で作った服を与えています。(3:21)また、弟を殺したカインに対しては、「カインが殺されないようにしるしをつけられた」(4:15)と書かれています。神のこの世に対する祝福はまだ存続していることが判ります。この流れの中でアブラハムが選ばれ、モーセが選ばれるのですから、この世がまったくの悪の世界になってしまったわけではないことは認識されなければなりません。

 主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ。御心の天でなるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るように教えられています。御国とは神の国のことです。それが来るということは、喜ばしいものが来るということであり、祝福が来るということです。それをこの世の滅亡とか、裁きとか、苦難が来ると解釈することは許されません。私たちが主の祈りを祈るということは、私たちがこの世において、神の御旨がなるように祈り、期待し、それを目指して行動することように招かれていると理解するのが当然です。それもこれも、まず神ご自身がこの世を愛しておられるからなのです。

 この世が悪の世であるとか、人間にイマゴデイはないなどと教えてはなりません。悪い時代もあります。個々の人間の中には悪人もいます。しかし、神の造られた世界、そして造られたときの人間は罪のない素晴らしい存在であったと教える必要があるし、聖書もまたそのように教えていることを知らなければなりません。

神様は、ご自身の造られたこの世を愛しておられます。愛しているとは、祝福しよう、導こう、完成させようと考えておられるということです。それゆえに、ひとり子なるキリストをこの世に送ったのではないでしょうか。

 あの世にキリストを送ったのではなく、この世に送ったのです。そして、この世で十字架という苦しみを受けさせ、この世で死を体験させ、そして、この世で復活させたのです。すべてこの世での出来事です。それは神がこの世を救い、この世を完成させようとしているからなのです。

 クリスチャンは、それゆえ、この世の問題にたいして目を開かなければなりません。教会はあまりに長い間、あの世のことばかり関心を示してきたので、この世のことに疎くなっています。旧約の時代には多くの預言者が現れ、イスラエルを導こうとしましたが、キリスト教会の2000年の歴史の中で、預言者的使命を果たしたのは、クロムウェルとか、キング牧師とか、数人に過ぎません。

 この世のことについては、教会よりも、むしろ「教会外の人のほうが先に進んでいる」と言っては言い過ぎでしょうか。イエス・キリストも「この世の子らは光の子らよりも賢い」(ルカ16章)と語ったことがありました。おそらく、イエスの時代にいた自称「光の子」に対する期待が裏切られた経験が背景にあるのではないかと推測したくなる文脈です。今の時代、この21世紀になっても、教会内部の人々のこの世に対する発言は残念ながらあまり当っていません。それは長い間教会がこの世にたいして無関心でいた付けが今の時代に来ているからなのでしょう。

 キリスト教会が将来を見抜いて正しく預言者的使命を果たすなら、未来においてキリスト教は評価されることでしょう。しかし、もし間違った預言をするならキリスト教会の評判は地に落ちますし、神の裁きにあうことになります。そして、困ったことに、今の日本のキリスト教会の現状は非常に危険な状況にあるように思えてなりません。

 そういう中でこの「とりなし祈祷会」の存在は非常に大きいと感じています。少数意見を言うことは勇気のいることですが、それこそまさに狭き門より入るということです。

 今後もこの世を愛するが故に、この世に対して責任を持ち、目を開いて発現してゆくクリスチャンになるよう努めなければならないと示されているところです。












                                       以 上

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