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神の選びのご計画
                      東京西バプテスト教会牧師  黒瀬 博
日本のためのとりなしニュースレター2015年2月号付録

 聖書を学ぶと、神はイスラエルを選ばれたことを教えられます。これはとても素晴らしいことです。しかし、はたして神はイスラエルだけを選ばれたのでしょうか。

人間が何かを選ぶとき、ひとつだけ選ぶことがあります。しかし、ふたつ選ぶことはないのでしょうか。オリンピックで金メダルを取る人はひとりだけです。しかし、銀メダルもあります。銅メダルもあります。

聖書によると、神はイスラエルを選ぶ前にアブラハムを選んでいます。アブラハムを選ぶ前にノアを選んでいます。ノアを選ぶ前にアダムを選んでいます。この地上に神は多くの生き物を造られました。その中から選ばれたのがアダム(人)でした。アダムという名前
に非常に大きな意味が込められているように思えてなりません。「アダム」とはへブル語で「人」という普通名詞です。日本語訳では「アダム」という固有名詞のように訳される場合がありますが、「人」と訳されている個所もあります。どちらにも訳せるのが「アダム」なのです。

創世記で、なぜアダムに固有名詞が与えられず、人という単語が使われているのでしょうか。それはアダムとはまさに「人」のことだからです。神は多くの生き物の中から「アダム」という特定の人物を選んだのではありません。「人」を選んだのです。その「人」の中には私も含まれているのです。まさに神は「人類」を選ばれたのです。

その神の選びの中から、特定の人物としてノアが最初に選ばれました。ノアの次にアブラハムが選ばれました。アブラハムの次にイサクが選ばれ、次にヤコブが選ばれました。この「選ばれた」ということの背後には「選ばれなかった人がいる」ことが示唆されています。つまり、ロトは選ばれなかったのです。イシマエルは選ばれませんでした。エソウは選ばれませんでした。しかし、ロトはソドムから助け出されています。イシマエルは彼の子孫によるイシマエル部族連合の創始者となっています。エソウの子孫も部族を作っています。選らばれなかった割には神に祝福されたように描かれています。それはなぜでしょうか。それはエソウにはイサクへの祝福が残っているからです。イシマエルにはアブラハムの祝福が残っているのです。

アブラハムを祝福された神が、アブラハムの子であるイシマエルを捨てることはありえません。イサクは第一の祝福として選ばれていますが、第二、第三の祝福がイシマエルに与えられています。それゆえ、イシマエルの子孫であるアラブ人は現在も繁栄しているのです。

すると、ノアの子孫である私たち日本人は、そして、アダムの子孫でもある私たちは、神のアダムの選びの中にあることになります。イスラエル(ヤコブ)の選びからは漏れているかもしれませんが、アダムの祝福は受け継いで今日まで来ているのです。そう考えるとイエス・キリストによる救いが全世界にまで広げられた理由が判ってきます。

もし、イスラエルだけが神の選びの中にあるなら、ユダヤ人だけが救われて終わりになるでしょう。ところが、イエス・キリストが登場したということは、イスラエルだけの救いでは神のご計画が実現しないことを意味しています。全人類が救われないことには神の世界創造の目的は達成されません。アダム(人)は神に選ばれましたが、その選びは消えることなく、今日まで続いているのです。

神の救いのご計画の中で、イスラエルが最初に用いられました。その中でもユダ族がもっとも用いられました。しかし、そのあとでは、ギリシャ人が用いられ、次にローマ人が用いられ、ヨーロッパ人が用いられました。神は世界中の民族を用いておられるのです。

文明発展の歴史をたどってみると、面白いことに、一度繁栄した民族は二度と繁栄していません。かつて多くの哲学者、科学者を輩出し、文明の頂点に立ったギリシャも、今はヨーロッパ内での後進国です。ローマはイタリアとしてまだ繁栄していますが、世界最先端ということではありません。アッシリア、バビロニア、ペルシャは、かつての繁栄のかけらもありません。

現在、世界で先頭を走る国はアメリカです。この国はついこの間まで新興国としてヨーロッパの後塵を拝していました。かつてのスペインは後退し、イギリスも2番手、三番手に落ちています。ちょうど競馬のレースのようなものです。先頭の馬は常に交代するのです。

そのようにして、世界各国の民族が代わる代わる世界の発展に貢献して世界史を進めてゆくことが神のご計画なのではないでしょうか。アダムを選んだ神は、世界中の各民族も選んで、それぞれに特色を与え、世界に貢献できるように役割を与え、また活躍する時期を与えておられるのです。


日本がいつごろ世界に貢献できるのか・・・、まだ判りませんが、いずれそのような時がくることでしょう。それもこれも、神が日本という国に対して、世界に貢献できる資質を与え、日本の歴史を作ってくださったからなのです。キリスト教は日本の歴史を否定してはなりません。むしろ、逆です。日本の歴史の中に神様が働いてくださっていたことを見抜いて、そこから神の意志を確認し、日本の発展の方向性を示さなければなりません。

アジア大陸の端に日本列島という島々を作られたのは主なる神さまです。その島に、最初は縄文人、次に弥生人を連れてきたのは神様なのです。その人々が村を作り、町を作り、国を作り、やがて統一国家である大和朝廷を作りました。これを導いたのは神様です。その後、貴族の時代、武士の時代をへて、明治維新を迎えました。これも神のご計画なのです。そして、第二次大戦後、日本はまた新しい国になりましたが、これも神のご計画です。この動きは今も続いています。神は次の時代に向けてすでに動き始めています。それもまた神のご計画なのです。

新しい時代が現れるとき、古い時代は捨てられます。しかし、すべてが捨てられるわけではありません。古い時代を土台として新しい社会が生まれます。ちょうど、メソポタミアの都市が古い町の廃墟の上に建てられるようなものです。すべての社会はそれ以前の社会の廃墟の上に建てられます。廃墟ですから捨てられたものの上に建てられるのですが、その壊れた城壁や建物を使って、その上に建てられます。古いものがなければ、新しい社会は生まれません。現代でも同じことが起きています。必ず古いものが一度崩されます。その次に、それを土台として新しい社会や、国が出来るのです。

日本の文化伝統も、古いものはいつの時代にも捨てられてきましたが、それらは捨てられながら用いられてきたのです。ですから、古いものや捨てられたものが悪いものとか、無価値なものと考えてはなりません。新しいものの土台となる価値はあったのです。

古いものが否定されながらも新しいものの土台になるということについて、神は私たちに非常に有益な材料を与えてくれています。それは旧約聖書と新約聖書の関係です。キリスト教はユダヤ教の否定として成立しました。ですから、旧約聖書の教えを守っていません。しかし、その旧約聖書がキリスト教の正典なのです。これは理屈っぽく考えると非常に奇妙なことです。自分が否定したものを自分の正典とするなどということは普通はしないものです。

キリスト教会にとっても、当初、旧約を否定する人々が多かったのですが、マルキオンが過激な旧約否定論を展開したので、それに対する反論として旧約を正典として認めざるをえなくなったという歴史があります。それ以降、キリスト教会は、自分が正典としている書物を守らない(無視する)という矛盾を抱え込むことになりました。

これについては、クリスチャンの中にも認識していない人がたくさんいるので、少し説明しておきますが、旧約聖書にははっきりと礼拝の場所はエルサレムだけであって、その神殿で動物犠牲を捧げることで礼拝をしなさいと教えられています。また、安息日は土曜日であり、その日には一切の労働をしてはならないと教えられています。また、豚やその他のけがれた動物の肉を食べてはならないとも教えられています。その他もろもろの教えが書かれていますが、今日のキリスト教会はエルサレムでの礼拝を守らないし、動物犠牲は捧げないし、安息日(土曜日)は守らないし、その他、一切の律法を守っていません。また、守ってはならないとまで教えています。それはパウロが新約聖書でそのように教えているからなのです。

つまり、新約聖書が旧約に優先するということなのですが、それなら、新約が正典であり、旧約は第二正典とすればよいはずです。ところが長い歴史の中で、新約と旧約は同列の権威あるものとして扱われてきました。実際は新約は旧約に優先すると理解されているのですが、神学的には同列なのです。いや、旧約が新約の土台であるということは、旧約のほうが権威が上かもしれないと思えるほど、旧約は重要な書物として扱われている歴史があります。

ある人は、これを論理矛盾としてとらえて、キリスト教を批判しますが、見方を変えるなら、これこそ真理そのものであるという理解も可能なのです。古いものの権威と新しいものの権威とは、どの民族、どの国家であれ、キリスト教の旧約と新約の関係にあると理解すれば、非常によくわかります。

日本文化の中の古いものは捨てられる運命にありますが、それは無価値なものとして捨てられるのではありません。新しいものの土台となるように否定されるのです。ちょうど、旧約が新約の土台として否定されながらも、旧約としての権威を持ち続けたように、日本の古い文化伝統も、否定されながらも肯定されるという論理の中で扱われるべきことになるのです。

江戸時代以前の文化は旧約なのです。もしくは、大戦前の文化を旧約としてとらえられるかもしれません。古い文明については、常に権威を認めつつ否定し、否定しつつ肯定してゆくことが正しいやり方になるのです。

キリスト教会が日本の歴史と文化に対して、そこに神由来の価値を見出し、誇りと尊敬を持つことができるなら、それがキリスト教の伝道と土着化の出発点となり、神の祝福が満ち溢れることになるでしょう。



                                       以 上

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