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日本文化の中にもともと存在する贖い思想
日本文化の中に受肉された神(4)
                              東京西バプテスト教会牧師  黒瀬 博
  テモテ第一の手紙2章6節
「この方はすべての人の贖いとしてご自身を献げられました。」

キリスト教信仰の根本はイエスキリストの十字架が人類の罪の贖いとなったことを信じることです。この贖罪論は「日本人に判りにくい」と言われることがあります。その理由は、日本には動物を犠牲として神に捧げる習慣が無く、キリストの死がどうして罪の赦しに繋がるかを理解する前提が日本に無いからであるということです。たしかに、日本には動物を捧げる習慣はありません。神社への捧げ物は、古くはお米でしたし、その後は、お金になりましたので、動物を捧げる習慣は無かったという結論は間違いではありません。しかし、だからと言って、キリストの死を贖罪として理解することが出来ないと考えることは論理の飛躍があります。

日本文化には贖罪論を理解するための材料があります。「少しある」どころではありません。たくさんあるのです。そのことをキリスト教会がどうして認識してこなかったのか、不思議な気がしますが、おそらくそれは、キリスト教会の贖罪論理解が不充分だったからではないでしょうか。キリスト教会自身が大いに反省しなければなりません。

贖罪論はすべての宗教の根底に横たわる思想であり、贖罪論のない宗教などありません。たとえ、「贖罪」という単語を使わない場合があっても、「贖罪」の概念はあります。たとえば、仏教には「滅罪」という言葉があります。膨大な仏典の中で、あまり強調されない教えではありますが、重要な単語であることには変わりありません。奈良の法華寺という有名な寺の別名が法華滅罪寺というものです。滅罪の手段は曖昧なので贖いとは意味が異なりますが、罪の赦しを求める点では同じであり、贖い理解の前提を提供する発想であるといえます。私の両親がかつて奈良に住んでいたことがあります。当時、私はまだキリスト教と仏教の関係に関心を持っていませんでしたが、たまたま訪れた法華寺の教えを聞き、いわゆる仏教と異なり、キリスト教的響きがあることに気がつき、驚いたことがあります。それ以後、まじめに仏教を研究するようになりましたが、それもこれも神の導きであると思っています。

神道はめったに「贖罪」と言う単語を使いませんが、「穢れを払う」という言い方をします。これが贖罪論かどうかは意見の分かれるところでしょうが、その論理構造が贖罪論と同じであることは認めなければなりません。神道とユダヤ・キリスト教との類似点は、すでに日ユ同祖論により多くの指摘がなされていますが、外形的類似点だけでなく、理論上の類似点もあることも忘れてはなりません。「贖い」を理解する前提は神道の中にあるのです。

そもそも、この「贖い」という単語が大和言葉であることは否定できない事実です。日本語には多くの中国語由来の単語があります。自由、平和、存在など、挙げればきりがありません。それに対して本来の日本語は大和言葉と呼ばれます。父、母、山、川などの単語です。では「贖い」はどちらに属するかというと、これは大和言葉です。対応する漢語は「贖罪」です。「しょく」が音読み、「あがない」が訓読みです。つまり、中国語の「しょくざい」という単語が輸入される前にすでに「あがない」という大和言葉が存在していたということです。存在していたということはそれを理解する前提がすでに日本にあったことを示しています。

もっとも、「贖い」という言葉が日本文化の中心概念のひとつであったわけではありません。「贖い」という言葉の用例を探しているところですが、今のところあまり見つかりません。日本書紀のスサノオ物語の中で「贖罪」という単語が見つかります。日本書紀は漢文で書かれているので、これを日本語の用例として取り上げることはできませんが、これを読み下し文にしたとき「あがない」と読むことになります。日本書紀を読み下し文にしたのがいつの時代かは問題ですが、おそらく平安時代には読み下し文として読まれるようになっていたと思われます。

もっとも、「贖い」概念はすでに日本書紀の中にあります。また、古事記の並行箇所も同じです。そこでは、「スサノオが悪事を働き、その罰して鬚と爪を切った」となっています。この罰を「贖罪」と表現しているのが日本書紀です。その頃、「贖い物の司」と言う役職もあったとのことですから、「贖い」が広く使われていた単語であることは間違いありません。

しかし、その後、あまり用例が見つからないところを見ると、日本文化の中で重要な位置を占めていた単語とは言えないでしょう。ところが、聖書翻訳の際、ヘブル語のカーパル、および、ギリシャ語のリュトローシスが「贖う」と翻訳されたことにより、この単語は突然、重要単語として復活したのです。

ヘブル語のカーパルとギリシャ語のリュトローシスではやや概念上のずれが存在しています。ヨーロッパの神学書ではそれを自覚することなく贖罪論を議論するので、内容的に混乱したものが多いのですが、日本のキリスト教会はそれをそのまま受け入れるので、贖罪論が判りにくくなるのです。神学書は無視して、レビ記とヘブル書から贖罪論を学ぶなら正しい理解が生まれます。

幸い、日本語の「贖い」はヘブル語のカーパル的ニュアンスがあるので、ヨーロッパ語で考えるよりも日本語で考えるほうが混乱無く正しい贖罪理解に導かれます。

贖罪論の構造として、第一段階は「罪に裁きがある」ということです。これは説明無しにすべての人が了解することです。どの民族、文化でも、罪が裁かれずに残ることはありません。

第二段階は、その裁きが別の人や物に代理されるということです。これを身代わりという単語で考えて見ましょう。身代わりが可能かどうかという議論は意味がありません。全世界で身代わり思想が幅を利かせているのはなぜでしょうか。法律と宗教では使う論理が異なることを知らなければなりません。宗教的に考えると身代わりはごく自然な発想なのです。

日本文化の中で身代わり思想は各地に存在しています。灯篭流しなどでは、「灯篭にその人の罪・穢れ・禍を乗せて流す」と説明する場合があります。流し雛の風習でも、罪・穢れを人形に預けて流すと考えられています。その他、神社、お寺で苦難・禍の身代わりを教えているところは結構たくさんあるのです。

第三段階は、裁きを負う人の犠牲です。日本武尊は関東を制圧するために浦賀水道に来たとき、流れが速くて船が進まなくなりました。その時、妻の弟橘姫が入水したところ船が進み始めたとの記事が日本書紀・古事記に載っています。「御子に代わり」という表現もあるので、身代わりという思想も含まれています。また、犠牲を払うことにより禍が過ぎ去るという発想も含まれています。

犠牲により生命が生まれるという思想もあります。古事記では、イザナギの神がカグツチの神を切り殺したところ、その血が滴って何人もの神が生まれています。また、スサノウの神がオオケツヒメの神を殺したところ、その死体から蚕や米、粟、麦などが生まれています。

犠牲があって祝福があるという発想はギリシャ神話にもあり、プロメテウスが人間に火を与えたところ、人間は幸せになりましたが、怒ったゼウスはプロメテウスを人間の代わりに苦しめています。犠牲と祝福の関係はキリスト教だけでなく、日本神話、ギリシャ神話にもあり、世界共通の発想といえるでしょう。

これらを総合しても、それでキリスト教の贖罪論になるわけではありませんが、贖罪を理解する前提にはなっています。今後、日本においてキリスト教が広まるにはキリスト教思想の正しい理解が不可欠になりますが、日本思想から遊離したキリスト教理解では信仰も根無し草に終わってしまいます。根を張ってしっかりと根付き、成長し、実を結ぶためには、日本思想の中にこそキリスト教の前提を探さなければなりません。

聖書翻訳の際、カーパル、および、リュトローシスを大和言葉である「贖い」と訳したことは神の導きだと思います。日本はキリスト教を理解する前提をもともと持っていたのです。翻訳とは難しいもので、しばしば適切な訳語が見つからないことがありますが、「贖い」については大和言葉が存在したのは幸いでした。しかし、日常語ではなかったので、現代の人々にとって馴染みある単語ではありません。それゆえ、再度「贖い」を民衆にわかる言葉にするよう教える責任はキリスト教会側にあるといえるでしょう。

その際、気をつけなければならないことは、ヨーロッパ語における用語の混乱を引き継いではならないと言うことです。ヨーロッパ語では「贖い」と「買い戻す」が同じ単語と理解される傾向があります。これはギリシャ語にすでにある混乱なので、キリスト教としては逃れるのは容易ではありませんが、ヘブル語では別の単語ですから、区別して考えなければなりません。

ヨーロッパの神学書では、「贖い金を神に支払うのか、悪魔に支払うのか?」とか、「神への満足を与えるためである」などの議論を贖罪論と称していますが、それらはすべて「買い戻す」とか、「身代金」という単語から考えた結果の贖罪論です。キリスト教の贖罪論はヘブル語のカーパルを基本とするものですから、「買い戻す」と言う意味を中心に議論してはなりません。

ヨーロッパの教会での説教は、贖罪論を正しく理解して教えているようなのに、神学書になると混乱が生じるというのはどうしてなのでしょうか。神学書の贖罪論は信用できないと言うことは述べておかなければなりません。

イエス・キリストの十字架が贖いであるとの教えがあるからキリスト教は世界に広まったのであり、日本においてもこの教えは非常に重要であり、また、日本民族にとって受け入れやすい教えであることをはっきり自覚して、これからも妥協無くキリストの贖いを述べ伝えてゆかなければなりません。
                                       以 上

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