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先祖崇拝とキリスト教
日本文化の中に受肉された神(3)
                              東京西バプテスト教会牧師  黒瀬 博

  日本は神様に選ばれた国であり、天地創造の始めから特別な使命を与えられて
いるように思えてなりません。なぜなら、古くからの日本文化の中にユダヤ・イスラエルとの共通の事象がたくさんあるだけでなく、日本精神の根幹がキリスト教の教えとかなりの一致を示しているからです。

従来、文化面については、契約の箱とお神輿の形が似ているなど、その他、多くの類似点が指摘されています。しかし、精神面、また、神学面においては、むしろ逆の指摘がなされてきました。いわく、「日本人はキリスト教にあわない」とか、「日本とキリスト教の間には溝がある」などの言い方です。遠藤周作の「沈黙」の中では、「キリスト教の根っこが日本の土壌の中で腐ってしまい、健全に育たない」という嘆きが書かれています。この言い方は、小説の中ですから、筆者の本心とは思えません。しかし、ひとつのチャレンジとして語っているのでしょう。そのように言いたくなるような状況にあることは良くわかります。日本にキリスト教が伝えられてから500年、プロテスタントから150年の歴史があります。かなりの年月がたっていますが、一向にキリスト教が増える気配はありません。日本では外来の物は舶来物として人気があり、外来生物でさえも増えて困っている現状です。ところが、こと宗教に関しては、キリスト教は相変わらずの現状です。それを反省して、いろいろな原因探しの分析がなされていますが、その中にはたして正しい反省と分析が含まれているでしょうか。

原因があって結果が出てくる世の中ですから、反省とか分析も悪くはありません。しかし、何事にも両面があるのであって、一方的反省だけでは真実を見誤る危険性があります。私が経営学の本を読んでいて面白いと思ったのは、アフリカに出かけたあるふたりのセールスマンの話です。ふたりは靴を売るセールスマンでした。ひとりは、アフリカに到着して早々、本国に電報を打ちました。「アフリカでは誰も靴を履いてないので、靴が売れないので帰国します。」 もうひとりのセールスマンも早速電報を打ちました。「アフリカでは誰も靴を履いてないので、どんどん靴を送ってくれ。」

似たようなことが日本伝道の方策分析にも当てはまります。ただし、この小話とは逆の論理になります。「靴を売りにきたら、日本ではすでに皆靴をはいていた」ということです。日本でキリスト教が広まらないのは、「日本がキリスト教に合わないからである」と考えることも出来ますが、「日本にはすでにキリスト教とよく似た考えがあって、いまさらキリスト教に改宗しなくてもやってゆける」という面もあるのではないでしょうか。世界の様々な文明の中で、おそらく日本がキリスト教に一番近い文化ではないかと思います。それゆえ、あえてキリスト教の教えを受け入れなくても、ある程度の倫理的高さも維持することができるのです。

他の文化圏では、キリスト教と土着の文化を比べるとキリスト教の方が断然良いということになり、すぐに多くの人々がキリスト教に改宗します。ところが、日本はそういう低レベルの国ではないのです。キリスト教の到来前に、すでにキリスト教の教えとかなり近い考え方を確立していたのであって、すぐにキリスト教を受け入れる必要性が少なかったといえます。

日本の宗教というと、神道とか仏教という名が挙げられますが、実は古来から日本人の心を本当に支配しているのは神道でも仏教でもありません。もうひとつの宗教があります。ところが、その宗教は神道、仏教の陰に隠れて、その存在が見えにくくなっています。日本に来た宣教師たちは、日本の宗教は仏教だと考えて、この仏教を論破すれば日本人はキリスト教徒になると考えました。ところが、いくら仏教を批判しても日本人はキリスト教になびきませんでした。なぜなら、日本人の大半はお寺に所属はしていますが、仏教を信じていないからです。その証拠に、日本人は平気で肉を食べます。お酒も飲みます。本当の仏教徒なら絶対にしないことを平気でするということは仏典を読んでないと言うことであり、まじめに仏教を信じていないことを示しています。では、神道を信じているかというと、その点も曖昧です。何が神道であるかは、確定しにくいので、手短に纏めることはできませんが、少なくとも、神道に則って生きている日本人はひとりもいません。則るべき教えのない宗教だからです。

ところが、それにもかかわらず、日本人は古来からひとつの精神によって生きてきました。則るべき教えを持っているのです。それは仏教でもなく、神道でもない考え方です。私はその宗教を先祖崇拝教と呼ぶことにしています。この宗教があるゆえに仏教は日本に根付くことができず、神道も影響力を発揮することが出来ないでいるのです。そして、キリスト教もまた、この先祖崇拝教の前に苦闘しているというのが現状です。

ところが、ここに問題があります。キリスト教はもともと先祖を大切にする宗教であり、墓も大切にしてきました。アブラハムの墓はヘブロンにありましたが、長い間その場所はイスラエル人の崇敬の場所でした。また、今日のカトリック教会の総本山はバチカンですが、そこはペテロの墓の上となっています。十戒には「汝の父と母とを敬え」と教えられていますし、キリスト教は最初から先祖を大切にしてきた宗教なのです。

日本における先祖崇拝教が非常に強力であるということは、偶然ではありません。そこに真理の一端があるからであって、最初から間違った教えであるなら、とっくの昔に滅びているでしょう。今日まで存続し、キリスト教にたいしても有力な競争相手となっているのは、それだけ真理性が高いということを意味しているのです。

それゆえ、日本のキリスト教会は、未開の民族に伝道するような安易な気持ちで日本伝道を展開すべきではありません。日本はキリスト教が本物にならない限り伝道が成功しない場所なのです。神様はキリスト教会にチャレンジする機会を与えるため、日本のような国を作られたのです。

先祖崇拝教は、単に十戒の教えが似ているというだけでキリスト教に張り合う力があるのではありません。ユダヤ教よりもさらにキリスト教の本質に近い性質を持つ宗教なのです。イエスの教えの出発点は「父なる神」を教えたことです。神に対して「アバ父よ」と祈った最初の人物がイエスです。それまでのユダヤ教では神は超越神であり、天の上から人間社会を見下ろしている存在でした。ところがイエスは神を身近な家族関係の言葉で捉え、神を「私の父」と呼んだので。

さて、日本の先祖崇拝教の神は先祖です。先祖とは、父の父、母の母のことですが、ひとことで言えば、父のことです。英語で fathers というと先祖という意味になります。日本人は父を神としてきたのです。それに対して、キリスト教は神を父としたのです。方向は逆ですが、どちらも、神を身近な存在として捉えています。それゆえ、どちらの信仰も人間の精神性の奥深くに根づくことのできる強力な宗教性を備えているのです。

では、どちらが正しいのかというと、これは「正しい」という言葉で分析すべきではありません。先祖崇拝も真理性を色濃く持っているのであって、それもひとつの立派な信仰だと言えます。

しかし、どちらも同じというわけではありません。キリスト教の場合、先祖崇拝を否定するのでなく、先祖と神を区別して、先祖は尊敬し、神は礼拝するという論理で信仰を持ちます。これは先祖崇拝教よりも論理的には正しいことは事実であって、その点を教えてゆけば、多くの日本人は納得するはずです。先祖崇拝教はキリスト教に極めて近い宗教ですから、否定するのではなく、それを一歩進める形をとるように導くと、すぐにキリスト教に到達するのです。

さて、先祖を尊敬するなら、先祖の喜ぶように行動すべきではないでしょうか。そこで、ひとつの考え方の道筋を紹介します。私はある家庭集会で参加者に次のような質問をしてみました。「皆様方の中で、自分が死んだ後、子孫から神様として拝んでもらいたい人はいますか?」私の質問の趣旨が良くわからなかったらしく、多くの人は答えられずにいましたが、ある人が答えてくれました。「そういうことは考えたこともありません。何で私が神様として拝まれる必要があるのでしょうか。」そこで、私が答えました。「あなたの先祖もそのように感じているのですよ。」

子孫のなすべきことは、先祖の願ったことを行うことです。私たちが子孫から神として拝んでもらいたいと思わないように、先祖たちもそのようには願っていないのです。先祖が願っているのは、子孫に、覚えてもらい、思い出してほしいということです。これをキリスト教では「記念する」と表現します。先祖崇拝教では、神概念が素朴であったために、先祖を神として拝みましたが、先祖が本当に願っていることは、「神として」ではなく、「先祖として」記念されることなのです。先祖もすでに永遠の世界にいて、父なる神の権威を知っているのですから、子孫に対して、はやく天地の創造主である父なる神を信じて、神を礼拝するように願っているのです。私たちは、先祖の意向を踏まえて、先祖は先祖として覚え、記念し、神は神としれ礼拝するのです。これこそ、先祖を喜ばす本当の道なのです。

ですから、キリスト教は先祖を、「崇拝する」という言葉ではありませんが、それ以上の尊敬を持って扱います。墓は大切にします。先祖の記念式も行います。それにあわせて、父なる神を礼拝します。これこそ先祖が真に願っていることだからです。記念式、どの宗教のやり方でも良いのです。先祖がキリスト教式を嫌がっているわけではありません。一番いけないことは、先祖を覚えないことです。感謝もしない。何もしない。キリスト教徒はそのような怠慢な人間ではありません。キリスト教は先祖をちゃんと尊敬し、先祖が願っているとおりの神礼拝も実践するという、きわめて優れた宗教なのです。
                                       以 上

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