トップページ >> 日本のためのとりなし >> 2009年度 >>12月号レポート
         すべては栄光のために         
                   ヨハネ福音書9章1〜41      高 田 和 彦     
                   
  「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である』。イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、『シロアムの池に行って洗いなさい』。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った」(1〜7)。

  ときどき、わたしたちは木を見て森が目に入らない場合があります。またその逆もあります。ケース.バイ.ケースで両方とも必要なのですが、創世記で、アブラハムの歩みを辿ってみる場合、最初から細部に目を向けるよりも、大ざっぱにとらえて森を見るようにした方が、よりよく理解できると思います。つまりアブラハムの歩みは、12章「召命」からはじまり15章「約束」、17章「契約」、そして22章「最後の試練」を重点的に見ていく方が全体像を把握しやすくなると思います。

  「信仰の父」アブラハムも、初めからそうではなかった。むしろ「不信仰の父」でありました。その彼が神さまと共に歩む中で徐々に鍛えられ、しっかりとした信仰の持ち主へと成長していきます。そして、<ひとにはできないが、神にはできる>信仰にまで導かれるのです。その最終テストともいうべきものが、22章の「イサクの奉献」という試練でした。

  ところが、この部分ほど、アブラハムの感情、こころの内が見えない部分もないのです。淡々と記されています。彼は黙々と行動します。何の反論も抵抗もありません。それだけに、わたしたちは、その行間に語られる心情を察して心ならずも涙してしまうのです。紙背に込められたアブラハムの人間的思いを考えてしまいます。しかし、それもこれもすべて覆い隠し、包み込む神さまへの信仰のみが前面に語られているところが、まさにアブラハム物語の真骨頂なのでしょう。

  このことがわたしたちに示すのは、信仰とは、結局人間の努力でどうこうできないということです。そんな甘いものではない。全く神に属する業でしょう。信ずるのは、神さまの導きにより、ひとえに聖霊のお働きに属するものだということです。アブラハムがイサクを奉献できたのは、彼の人間的な努力の結果ではありません。あくまでも天来の賜物として、聖霊のなせる業だったことを示しています。

  生まれながらにハンデイを負ってこの世に出てくる人がいます。生まれた後、薬害、事故などで障害を持つようになる人もいます。全くの原因不明で、それこそ…何の因果が?としか言いようのない形で、精神的、身体的に不自由になる人もいます。これに対する問いは人類永遠の課題なのかも知れません。

  ヨハネ福音書9章には、生まれながらに目の不自由な人が登場してきます。わたしたちの多くは、一応五体満足で生まれてくるのが当たり前のように思う傾向があります。そうでなければならないと勝手に思いこんでいるのです。考え方によっては、五体満足に生まれることが奇跡的なことなのかもしれません。ただ一般的には昔も今もそのように考えるようです。

  だからこそ周囲の人々は、その疑問を主イエスさまにぶつけます。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)と。分かりやすい質問です。いつも、わたしたちは理由が欲しがります。理由を得たからといって、すべてが解決するわけではないのに、それでも欲しがり納得したがるのです。現実はもっと複雑ですし、わたしたちの理解で割り切れるものではないにも拘わらず。

  主のお答えは人々の期待を裏切るものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」神さまがすべてをご存じであり、導いておられる、その中にはわたしたちの理解を超えた事柄もある、ということです。神さまは、わたしたちの望みどおりになさらない場合でも、わたしたちの思いを超えて根本的な解決をお与えになる。そう信仰者は信じるものです。

  ただ聖書の中には<たとえそうでなくても>という信仰があることを忘れてはなりません。聖書をバランスよく読む必要があるのは、このような信仰もあるからです。自分の思い通りに事が運ばなくても、それによって神への信頼は左右されないというダニエルの信仰告白こそ併せて受け止めておく必要があります(ダニエル書3章16〜18節)。

  主は常に、わたしたちが素直に御言葉に従うことを求めておられます。人間的に見えれば理解しがたいイエスさまの言動とアドバイスでしたが、おっしゃられた通りに行うことによって、盲人の目は開かれます。ここではナアマンの信仰(列王記下5章10〜14節)を想い起します。素直な信仰が求められ、率直に御言葉を行うところに祝福が与えられます。ですから主のお働きというよりも、主の御言葉に従順に聴く救いを求める人の素直さこそが注目されるべきです。癒された後、主がかけられる「あなたの信仰があなたを救った」という声は重要です。その結果、彼は目が見えるようになるのです。

  中途失明ではなく生れながらにして見えなかった者の目が開かれるということは想像を絶する出来事でしょう。彼を知っていた人たちは、彼が目を開かれ堂々としているのを見て、別人であると思いました。人々の間で議論が捲き上がるほどの、しかしちょっとした事件でした。人々に問われるままに答える彼でしたが、それは事実をありのまま、そのままに述べるだけでした。遠慮もなければ誇張もありません。どんなに素晴らしい業を神さまが、このいと貧しき者にしてくださるかを述べる。それが神さまの恵みを受けた信仰者の証しです。

  人々は喜び、驚き、戸惑い、彼をファリサイ派の人々のところに連れて行きます。13節からの記事ですが、盲だった人は、繰り返し繰り返し同じ質問をされます。ここでは、その日が安息日であったことが、やり玉にあげられます。その生まれてから盲目であった人が目が開かれてた事の喜びと感謝はどこかへ吹っ飛んでしまい、安息日規定をイエスさまが破ったことが問題視されます。問題のすり替えです。彼の喜びはどうでもよいことになり、そのような癒しの業が主によってなされたこともどうでもよいことになりました。自分を癒してくれた方への考え、評価を述べさせています。彼の答えは明快です。「あの方は預言者です」。最高の評価であり、ファリサイ派の人々には藪蛇です。追求すれば追求するほど、イエスへの評価は上がる一方です。

  18節以下。それでも何とか、悪い評価を引き出そうとする敵対者たちは、次に両親を呼び出します。自分から調査に出かけるのではなく、呼び出すところに彼らの権威主義的な態度が伺えます。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は見えるのか」(19節)と、尋ねます。本人も周囲の人も理解できないことを、特別両親が知ることはありません。ですから彼らも事実を述べることしかできません。しかも当局者に逆らうわけにはいかない。単純に喜べない状況になっていることを察した両親は、知恵をもって次のように答えます。「…わたしどもにも分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」敵対者たちは自分たちの納得する答えを引き出せません。事実、彼ら自身も何が問題か分からなくってしまったようです。

  24節から、ファリサイ派の人々は、もう一度盲人であった人を呼び出し問いただします。しかし、<無学な、ただ人>であるはずのその人は、自らの受けた事実に基づいて、淡々と、しかしながら堂々と主イエスさまが自分のしてくださったことを、時に聖書に基づいて語ります。そのやりとりが33節にまで記されているのですが、結局、ファリサイ派の人々はその盲人だった人に反論一つできずに、お茶を濁すように彼を追放するのです。彼らが問題として取り上げようとした、イエスさまの安息日における違反行為は問題ではなくなってしまいました。それほどに、彼のしっかりとした神信仰に基づく証しに反論できませんでした。

  35節以下は、まとめの部分です。主イエスさまと目の見えなかった人、そしてファリサイ派の人々とのやりとりが、この記事の全体のクライマックスとして記されています。<神の業がこの人に現れる>(9:3)という信仰告白が、ここに至ってようやく引き出されます。この人は、最後に主イエスさまにまみえ、ひざまずく(=礼拝する)ことで感謝を完遂します。

  ここでのキーワードは<見える・見えない>です。主イエスさまの真の姿を見えなかったファリサイ派の人々は、父なる神をも見ることはできませんでした。信仰をもって霊的にイエスさまを確認できなかったからです。逆に、見えるようにしていただいた男は、肉的に見えたのみならず、信仰をもって霊的にもイエスさまを認め、父なる神さまさえも見る者とされたのです。

  わたしたちも本当に見えるようになりたい。ただそれはここに登場する男のように、まことに純な心で、主に<見えるようになりたいです>と訴える者になることです。信仰は、わたしたちの中にいただく神さまの御霊の
働きそのものです。主の憐れみにおすがりしてまいりましょう。 アーメン

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