トップページ >> 日本のためのとりなし >> 2009年度 >>10月号レポート
         真理とは何か           
                   聖書 ヨハネ18:37〜38      ヨハネ 皆川尚一     
                   
ピラトの反問
 ピラトのイエス様に対する審問は、「あなたはユダヤ人の王であるか?」で始まりました。これに対してイエス様は「わたしの国はこの世のものではない」と答えられました。そして「わたしは王である。わたしは真理について証しをするために生まれ、また、そのためにこの世に来たのである。だれでも真理につく者はわたしの声に耳を傾ける」と言われました。これがピラトにはわかりませんでした。そして「真理とは何か?」と訊ねて、審問を打ち切りました。
  ピラトには「真理」が何であるかは分からなかったのです。

イエスの答え
  ではイエス様にとって真理とは何だったのでしょうか? 「真理」(アレテイア)とは、神様そのものであり、神様のみ言であり、神の御子イエスであり、聖霊であります。イエス様は父に「あなたのみ言は真理です」と祈られました。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言い、「真理の御霊が来るとき、御霊はあなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」と言われました。真理の御霊は御父を証しし、御子を証ししてくれます。それゆえ使徒パウロは真理を「隠された奥義としての神の知恵」と呼んで、御霊によって啓示されるほかに知りえないものとしています(Tコリント2:7〜14)。

神学校での学び
  1947(昭和22)年、わたしが神学校に入ったとき、桑田秀延校長がキリスト教概論を講義して下さいました。そのとき使った英文のテキストは、「Rule of Faith」(信仰の規範)という本でした。わたしはその本の内容は忘れましたが、ただひとつ憶えているのは、「真理は明晰判明である」という定義でした。これを聞いたときにわたしは「違う、真理は明晰判明ではない」と思いました。それで、桑田先生にそう質問したのです。当時22歳の若僧が生意気なことを言うと思われたようでしたが、先生の答えは「キリスト教の真理は聖書において明晰判明である」というものでした。それでもわたしは今に至るまで納得できません。

  キリスト教の真理が明晰判明なものならば、どうして色々な違った解釈が生まれ、違った教派が発生して来たのか? 説明がつかないと思います。この真理についての定義が、各教派の独善的主張の元になっているのではないかと思われます。

ルネ・デカルト
   そもそも、「真理は明晰判明」という定義は、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトが唱えた学説です。デカルトは確実なものを求めて一切の常識を疑うことから彼の哲学を始めました。あらゆるものを疑った末に、彼は絶対に疑い得ないものを発見しました。それは「考えている私は存在している」ということです。つまり「我思う、ゆえに我在り」です。これこそ明晰判明な真理であると彼は考えました。それゆえ自分の理性ですべてのものを明晰判明に認識できるとしたのです。

明晰判明とは
  ちなみに、「明晰判明」とは(英語でclear and distinct)です。「明晰」とは注意する精神の前にハッキリ認識されるもので、その実在性や価値を疑い得ないものを言うと定義されます。「判明」とは、明晰であって「曖昧さ」(obscure)とか、「混乱」(confusion)が含まれていないものを言うと定義されます。
  デカルトは、世界は自分が認識することで確実な存在になると考えました。 そして、世界を数学的な形として把握することだけが、確実な認識の道であると考えました。  
  しかし、数学は最も美しい幾何学であっても、仮説の上に立っています。先ず、「点」とは面積が無い一点だと定義しますが、面積の無い「点」というのは現実には存在しません。だから、点と点を結ぶ線も面積が無いことになり、多くの線の集まりである面も、面積が無いことになります。だから数学も明晰判明ではありません。

哲学の助けは不要
  このような哲学の助けを借りて神学をするのが誤りの元だと私は考えます。福音の真理は、理性や知性を超えた聖霊によって初めて認識されるものです。
  しかも、聖霊による啓示の認識は、各人の霊的成長の程度によって異なります。 同じく「神様」と言っても、内容は言葉で定義したり、表現したりしきれないほど深く、大きく、広いものだと思います。

シュタインバークの神認識
  ユダヤ教のニューヨークのラビのシュタインバークが「ユダヤ教は神を一つという、ゾロアスター教は神を二つという、キリスト教は神を三つという、ヒンズー教や神道は多神教で、仏教は汎神教であるが、真実の神は一つである」と説いていますが、そんなものは真理ではありません。

東洋的神認識
  現代は西洋の合理主義思想の影響によって、何もかも理性・知性で捉えうると考える人々が多いですが、東洋では真理は奥深いものと認識されて来ました。
  老子は「道とは、これが道であると認識した途端に、道ではなくなるものだ。道とは玄の玄なるものである」と説きました。「玄」とは「奥深く神秘なもの」を意味します。言い換えれば、「神」と言った途端に、もうそれは真の「神」ではなくなるような神秘的存在なのです。人はただ、畏れかしこみ、その聖前にひれ伏して拝し、讃美・礼拝するしかありません。そして、神の愛の御ふところに包擁される自分を知るのです。真の神認識は、即ち、真の自己認識だと言えるでしょう。使徒パウロは「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできない方である」(Tテモテ6:16)と言っています。パウロは復活のキリストの顕現を見たとき、目が見えなくなり地面に倒れてキリストにいだかれ、至福の境地を味わいました。作家の隆慶一郎は「キリシタンの神は厳しすぎ、痩せすぎている」と批評しています(「捨て童子松平忠輝」<中>p.236)。これに対して、現代日本のキリスト教の神観念は豊かで、包容力のあるものでしょうか?

八木重吉の詩
    理屈は、
    いちばん低い真理だ
    理屈がなくてもいい位もえよう                  アーメン

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