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慶長遣欧使節
           支倉常長のロマン     ヨハネ 皆川尚一
                   
マストに翻るの旗
 支倉常長の乗ったガレオン船サン・ファン・バウティスタ号のメイン・マストの天辺には、支倉家の家紋である(右マンジ)に違い矢の旗が翻っていました。
(右図参照→)現在、月が浦に再建されたバウティスタ号には、 に違い矢だけの旗がかかげられてありますが、本当は の上に王冠を配した右図のような王旗であったと思われます。この王旗を翻した政宗の船の画はローマの画家ドゥルエ作のバウティスタ号の画であってローマのボルゲーゼ枢機卿所蔵のものです。高橋由貴彦著「ローマへの遠い旅」にも政宗の船がメキシコのアカプルコに入港するときの様子が次のように描写されています。  
  「港湾当局者は王旗を掲げた一隻の船が海岸に近寄ってくるのを見て日本からイスパニア国王ならびにローマ教皇に遣わされる使節が乗船していることを知り、最高の名誉を持って使節を迎えることに決めた。船が入港するに際して礼砲を打ち上げ、使節一行が上陸すると、盛儀をもって迎え、王邸に泊めた。港の長官から通報を受けて副王は、アカプルコからメキシコ市まで最高の快適さで旅行できるよう、必要な物を すべて調達すべしとの命を与えた」(pp62〜64)。  

  もともと支倉家は京の名門でありました。「支倉家譜」によれば、桓武天皇の曾孫高望王(たかもちおう)の子孫で、常長の祖父支倉常正は1200石を領する上盾城主でありました。伊達家もまた藤原鎌足、不比等と続く藤原氏の子孫で奥州の守護であり名門でありましたから、政宗は父祖の代から仕える名門の支倉家を尊重し、支倉時正の養子となった六右衛門常長を自分の側近として用いたのです。政宗は18歳の若さで家督を継ぎましたが、常長は政宗よりも4歳年下で政宗の良い話し相手、身近な相談役であったと思われます。山岡荘八の小説「伊達政宗」には、常長を政宗の小姓となり、近習となり、そしてのちに伊達家の家老の一人になった人としています。しかし、常長が大使に選ばれる前からキリシタンになっていたという山岡の解釈はスペインで洗礼を受けたことと矛盾しますので受け入れられません。  

  わたしは支倉家が京の名門であった証拠の一つに の家紋があると考えています。というのは の紋章は紀元前1万7000年〜1万2000頃にかけて太平洋の中央部に存在したと伝えられる巨大なムー大陸に栄えたムー帝国の紋章であったらしいのです。有名なムー大陸の研究家ジェームズ・チャーチワードによれば、その紋章は十字か卍で、天地創造の神の万物創造の力を象徴するものだといわれます。(右まんじ)でも卍(左まんじ)でもよく王家の紋章として用いられ、丸に十字に太陽の光芒をアレンジした日本の旗のような紋章もあったようです。ムー文明が大陸と共に海中深く沈む前に、王家の人々が日本に避難してきたらしいとチャーチワードは推測しています。  
  また、「沖縄海底遺跡」や「ムー大陸沈没」の著者として知られる木村政昭琉球大学名誉教授によれば、与那国島の海底に沈んでいる古代太陽神殿の遺跡は、ムー大陸の一部ではないかと述べられています。その地球大変動の前までは、日本は島国ではなく、ユーラシア大陸の東部に栄えた国であったが、天変地異によって陥没と隆起が起こり、日本海、東シナ海、日本列島等が出来たようだと木村教授は見ています。  
  従って(右まんじ)の家紋はムー王家との係わりを持つ由緒ある紋章かも知れません。「バウティスタ号」の名は文献には一度出てくるだけで、本来奥州王である「政宗の船」と呼ばれるのが普通でした。この船の船尾には伊達家の家紋である九曜紋が大きく記されていました。ですから、王の名代(みょうだい)支倉常長が自分の家紋に王冠をかぶせた王旗を掲げて太平洋を横断し、メキシコまで行ったことの背景には偶然とは思えないロマンが隠れていると考えられます。

イエズス会資料の信憑性
  1619年11月30日付けのイェズス会のジェロニモ・デ・アンジェリス神父からイェズス会総長に宛てた報告書によれば、「政宗が大使に任命したのは一人のあまり重要でない家臣であった。彼の父は数ヶ月前にある窃盗の罪で斬首されていたが、今は大使に択んだその息子も日本の習慣に従って斬首するつもりであり、彼が従前うけていた僅かな俸禄をすでに召し上げていた。政宗はその死刑をエスパニアとローマまでの道中に遭遇する苦難に替えるほうが良いと判断した。当人は航海中に死ぬであろうと思われたがゆえに、彼を大使に任命し、少し前に召し上げていた俸禄をも返した」とあります。  
  イエズス会は日本宣教についてフランシスコ会と競争する立場にあり、フランシスコ会のソテーロ神父をおとしめると同時に、遣欧使節支倉常長をおとしめる報告を本部に送っていました。それゆえ公正な歴史資料とは言いがたいと思われます。しかし、イエズス会の策謀は成功してローマ教皇が日本宣教をイエズス会に限って許可することになったので、イエズス会が日本で創立した上智大学系の研究者松田毅一氏や五野井隆氏等はイエズス会資料を信憑性のあるものとして評価しています。ただ一人田中英道氏の「武士ローマを行進す 支倉常長」だけが、比較的公正な立場を堅持しているのは喜ばしいことです。

信頼できる常長の性格
  常長の実父山口飛騨守常成が窃盗の罪で斬首されたというのは誤りで、土地に関わるトラブルの責任を問われて政宗から切腹を命じられたらしいのです。しかし、その証拠とされる資料は昭和60年に発見された年代不明の伊達政宗書状です。その書き出しは「支倉飛騨のこと」となっており、ここからして間違っています。本来は「山口飛騨のこと」が正しいのです。《注:わたしは6月号で「支倉飛騨守」と書きましたが、その後の研究の結果「山口飛騨守」が正しいことが分かりました。》日付は8月12日となっていますが、年が記されていません。政宗の花押(かきはん)は慶長15(1610)年のものと似ているので、その頃ではないかと推測する研究者もいますが、常長の海外派遣は1613年なので、近すぎると思われます。  
  また、土地のトラブルの原因としては、支倉時正に実子が生まれたので、政宗は時正の1200石の俸禄を二分して、600石ずつとし、常長に分家を立てさせました。
  これは一見公平に見えますが、戦国時代の武士の心情を逆なでするような処置ではないかとわたしは考えます。
  例えば、徳川家光の頃、「阿部一族の乱」が起こりました。その原因は肥後54万石の大名細川忠利が死んで、殉死者19人が出ました。そのうち18人の後継者は父親と同じ俸禄を継ぎましたが、19番目の殉死者阿部弥一衛門の俸禄1500石は5人の子供たちに細かく裂いて分け与えられたのです。5人の分を合計すれば1500石になりますが、嫡子権兵衛はじめみな軽輩におとされたことになります。もし権兵衛が1500石の家督を継げば、弟たちは大樹の蔭に身を寄せる誇りと安心感をもったことでしょう。若い藩主細川光貞は側近の進言を受け入れてそう決めたのですが、名目を重んずる武士の心情を逆なでする処置でした。一周忌の法要の時、権兵衛が髪の毛を切って父の霊前に供えたので、光貞は怒って権兵衛を斬首刑にしました。すると阿部一族は屋敷に立てこもって反乱を起こし、主君の軍勢と闘って全滅しました。これは森鴎外の歴史小説「阿部一族」に詳しく述べられています。
  わたしは、常長が支倉の養子となって、1200石の家禄を継ぐはずであったのに、実子が生まれたというので600石ずつに格下げして分家された処置を恨んで山口飛騨守が若い政宗に抗議した可能性があるのではないかと思います。そうでなければ、山口飛騨の罪が家を出た常長に及ぶはずがありません。また、武士が主君から切腹を命ぜられるのは名誉の死であって、恥ずべきことではありません。しかし、政宗は名君の素質をもっていたので、自分の処置が名門の武士の気位を害する不適切なものであったことを反省して、一旦は追放した常長を呼び返し、600石をもって側近として重用したのだと思います。  
  また常長は主君の不当な処置を怨まず、むしろ、ますます忠実な家臣として献身的に政宗に仕えました。  
  特に、常長は19歳の時に政宗の命により、氏家氏と鳥島氏との間の紛争に調停役として派遣されました。また政宗が24歳の時、秀吉の小田原城攻撃に遅ればせながら参陣するとき20歳の常長は先駆けとして偵察の任務に当たり、近習として伊達成実と共に秀吉の前に出ています。また、大崎・葛西一揆のさいには、鎮圧のために政宗の使者として真山継重の許に派遣されています。このように常長は政宗の名代として何処に出しても主君の名を辱めない人間であると政宗から絶大な信頼を寄せられていたことがお分かりでしょう。

アカプルコ紛争の原因
  さて、1613年9月15日午前3時半ごろ石巻の月の浦を出帆した支倉六右衛門常長の船は、しばらくは天候に恵まれ、順調に太平洋横断の航路を辿り、途中暴風雨に遭いましたが、三ヶ月の船旅の後、無事にメキシコのアカプルコ湾に多数の礼砲の歓迎を受けてしずしずと入港しました。  
  これは、日本国皇帝と呼ばれた徳川家康・秀忠と、奥州王と呼ばれた伊達政宗とが協議して派遣した外交・通商上の公式使節です。徳川幕府は国内的にはキリシタン弾圧によってスペイン、ポルトガルからの軍事侵略を防ぎ、対外的には外交通商使節を送って通商の道を開くという二方面作戦を試みたのだと考えられます。そのため多数の日本人商人と商品とを載せていました。  
  アカプルコでは日本人商人と現地のフィリピン人やスペイン人商人たちとの間に紛争が起こりました。それは政宗の船に積みこんであった商品を日本人が販売しようとして、彼らと衝突したらしいのです。メキシコとフィリピンの間では通商が許可されていたけれども、メキシコと日本との間では未だ許可されていなかったからです。日本人の商品を彼らが取り上げようとしたために、日本人は武器をもって抵抗しました。そこでメキシコ当局は日本人から武器を取り上げ、帰国まで預かることとし、支倉使節6名の武器の携行だけを許可しました。そして、日本人に対する虐待、妨害禁止令を布告しました。それで、約150人の日本人商人たちは現地にとどまって商売をすることができるようになりました。

ルイス・ソテーロ神父
 支倉使節団の訪欧を伊達政宗に強く勧めたフランシスコ会のルイス・ソテーロ神父は極めて謙虚で誠実な信頼できる人柄であるだけでなく、日本宣教について、イエズス会とは対照的な注目すべき見識を備えた人物でした。彼の意見を要約するとこうです、《日本人に平易な言葉で説教すると軽蔑される。日本人は重要なことを話す際には、優雅な言葉を使う習慣があるので、この優雅な言葉を完全に習得するためには、漢字を習得しなければならない。これは宣教師にとって極めて困難なことである。彼らの疑問は優雅な言葉で書かれた仏典のいずれかに基いているので、宣教師がそれを理解しなければ、無学者、野蛮人として嘲笑されるからである》というのです。だから日本人を日本語で教育し養成するほかない、彼は日本に帰化して永住してでも日本人に福音を伝えたいと願ったのです。  
  それは、かってのイエズス会のヴァリニヤーノ神父(巡察使)が天正少年使節をローマに送って、彼らをヨーロッパ語で育てるというのと正反対でした。  
  ソテーロ神父は支倉使節団に付き添い、メキシコ、スペイン、ローマでの使命を果たさせるのに全力を尽くしました。そして、支倉常長もソテーロを深く信頼し、全権大使たるに相応しく優雅で、謙虚で、堂々たる態度をもって、国王、高官、ローマ教皇、枢機卿たちに接したので、彼らから尊敬と好意と信頼とを勝ち得ました。  
  帰途、スペインのマドリードでイエズス会からの激しい妨害工作によってソテーロの滞在が1年延び、常長は随員15名を先にメキシコに帰らせて、自分を含む5名はソテーロと共に留まりました。その間、ソテーロの負傷や、常長の病気による療養もありました。しかし。通商条約の締結は成功し、常長たちとソテーロは一緒に帰途について、メキシコを経て「政宗の船」でフイリピンまで到着、支倉使節団はソテーロを置いて日本に帰国しました。1622年ソテーロは薩摩に潜入して捕えられ、2年後に火刑によって殉教の死を遂げました。

支倉常長のロマンは実現した
 今年は日本とスペイン修好400年の記念すべき年を迎え、月が浦で支倉使節団訪欧記念大会が開催されました。その時来日したスペインの代表に、日本の記者が質問しました。「日本では、支倉使節団は失敗だったという説が定着していますが、これをどう思いますか?」、すると彼は言いました、「それはとんでもない誤解です。この400年間日本とスペイン、イタリアは通商を続けてきました。ここに立つ常長の銅像を御覧なさい。これが成功の証拠です。この銅像はアカプルコにも立っています。もし支倉使節団が来なかったら、今日までの歴史はなかったでしょう」と。

【主要参考文献】
 * 支倉常長 田中英道著 ミネルバ書房
 * ローマへの遠い旅 高橋由貴彦著
 * 支倉六右衛門常長 大泉光一著
 * 支倉常長 五野井隆史箸 吉川弘文館
 * クワトロ・ラガツツイ 若桑みどり著
 * 捨て童子・松平忠輝 隆 慶一郎著
 * 伊達政宗 山岡荘八著
 * 阿部一族 森 鴎外著
 * ムー大陸沈没 木村政昭著
 * ムー大陸の子孫たち チャーチワード

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