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悲劇の慶長遣欧使節
           [はせ][くら] [つね][なが]       ヨハネ 皆川尚一
                   
プロローグ
 したたかな顔でした。
  なめし皮のような陽に焼けた強靭な皮膚に、いつもせせら笑うような微笑が貼りついている。殺される時も、微笑しているのではないか。そして最後の最後まで相手を斃す手段を考えているのではないか。そんなことを感じさせる顔でした。
  大男ではない。尋常の背丈に尋常の目方。だが闘いとなれば手強い相手に違いないことは、ひと目で判る。全身筋肉の塊りでした。無駄な肉は一片もない。さりげない動作一つに、恐ろしいまでの敏捷さを秘めています。
  人の世の辛酸を、底の底までなめつくした顔です。地獄を見て来た顔といってもいい。その底光りのする目でじっと見つめられると、すくんだように動けなくなると同僚たちが言います。そのくせ表情は笑っている。物言いも穏やかで時に優しいといえるほどでした。
  つまりはどんな男にも、こんな奴を敵に廻したくない、と一瞬感じさせる。手強い人物でした。年齢は42歳。この当時としては老年に一歩踏み込んだ年頃だったと言えます。

常長の生い立ち
  その男の名は支倉六右衛門(ろくえもん)常長。1571(元亀2)年山口常成の子として生まれ、幼名は山口与市。その後、伯父支倉飛騨守時正の養子となり、支倉常長となります。
  常長は1592(文禄1)年、21歳で秀吉の朝鮮征伐に従軍し、伊達藩の足軽・鉄砲隊組頭として活躍しました。又、1597(慶長2)年にも26歳で足軽・鉄砲組頭として従軍、活躍しましたが、秀吉の死により、朝鮮征伐は中止となり、翌年帰国しました。
  また、のちに伊達領内で勃発した大崎・葛西一揆の鎮圧に当たった武将たちの中にも、その名が記録されています。
  こうした経歴を見ると、常長は若くしてすでに当時最新鋭の武器であった鉄砲の製作、操作技術に優れた知識を持ち、鉄砲隊を指揮して機敏・果敢に戦闘する「いくさ人」としての鍛錬を経て成長していたことが分かります。
  また、前号の「後藤寿庵」のレポートの中で述べたように、伊達藩領・藤沢町の大籠地区にはキリシタンの千松大八郎・小八郎兄弟が政宗の鉄砲隊の威力を増強するための鉄砲製造を大々的にやっていましたから、常長は鉄砲の知識・技術だけでなく、キリシタンの教えや生活についても知っていたと考えられます。

  時正に実子・久成(ひさなり)が生まれたので、伊達政宗の主命により家禄1200石を二分して、600石取りとなりました。1200石といえば常長の縁者であった後藤寿庵も、のちに同じ石高の領主となりましたから、支倉家も後藤家と並ぶほど家格の高い家柄であったと考えられますが、何か不届きのことがあって飛騨守は切腹を命じられ、息子の六右衛門も追放の憂き目にあいました。しかし、8年後に再仕官を許され、その3年後に600石を回復し、政宗の側近に取り立てられたのです。追放されていた8年間、家族を抱えての苦労は並大抵のものではなかったと思われます。「艱難なんじを玉にす」との諺の通り、常長は政宗の目に、まことに頼もしい大事を託すに足る器であると映ったのでしょう。

家康とメキシコ通商
  家康が関が原の闘いに勝利した1600(慶長5)年の2月に、オランダ船リーフデ号が暴風のため豊後の国臼杵湾に漂着しました。その船の航海長であったイギリス人ウイリアム・アダムズと同乗のヤン・ヨーステンは大阪に送られて取り調べをうけた後、家康の命令で江戸に住むことになりました。アダムズは造船技術と航海術に優れた立派な人物であったので、家康は彼に三浦按針(あんじん)という日本名を与え、三浦郡逸見(へみ)(現横須賀市逸見町)に250石の領地を与えて住まわせ、洋式帆船(ガレオン船)の建造を命じ、家康の外交・貿易の相談役としました。「按針」とは「航海士」という意味です。  
  家康はかねてからメキシコ(ノヴァ・イスパニヤ)との貿易に強い執念を持っていたので、三浦按針に120トンのガレオン船「皇帝の船」を作らせました。そして慶長14年に嵐のため房総半島に漂着した前スペイン領マニラ総督ドン・ロドリゴをその船に乗せて送り返し、京都の貿易商人田中勝助を同乗させてメキシコの視察を命じました。すると慶長16年4月に返礼としてメキシコ大使ビスカイノが田中勝助と共に来日したので、政宗は側近の支倉常長を京都に派遣して、メキシコについての情報を聞き取らせました。その時常長は後藤寿庵とフランシスコ会宣教師ソテーロを政宗の許に連れてきました。それは、家康がかねてから、西国の長崎・平戸に匹敵する貿易港を東国に開きたいと思っていたからです。家康は伊達政宗と相談して、伊達領石巻で500トンのガレオン船を建造して、メキシコとスペインとローマへの外交・貿易使節を乗せて派遣することを決めました。造船と派遣の費用は莫大なものでしたが、政宗が負担したと記されています。造船は三浦按針ではなく、メキシコ大使ビスカイノが乗っていた船のスペイン人船大工たちが、日本人船大工たちを指導して行い、材料は仙台領の山々から切り出されました。この船はサン・ファン・バウティスタ号と名づけられ、仙台船籍で「政宗の船」とも呼ばれました。

使節派遣の目的
  当初の計画では、この使節団は正使を家康の六男松平忠輝(ただてる)とし、副使を支倉常長とする予定であったらしいのです。それは、松平忠輝が文武両道の達人で数カ国語をあやつり、南蛮医術にも優れていたので、家康の凡庸な嫡子・将軍秀忠が忠輝を妬んで殺す虞れがあったのと、忠輝の奥方が政宗の娘でキリシタンであったからです。もうすでに江戸ではキリシタンへの迫害が始まっており、やがては全国に広がる恐れもありました。それゆえ忠輝をヨーロッパへ島流しにすることで彼らを守るのが隠れた目的であったといわれます。  
  しかし、出発の直前になって忠輝がヨーロッパ行きを断念したので、やむなく、正使を支倉常長、案内役をソテーロとすることになりました。  
  政宗は常長にメキシコの副王と、スペイン国王と、ローマ・カトリック法王とに宛てた公式外交文書を与え、キリシタンになること、使節として威儀を正して堂々と振舞うよう勧めたといわれます。    

  そのように勧められなくても、常長には充分な教養と「いくさ人」としての貫禄や鋭敏な感覚がそなわっていました。それには、こんなエビソードがあります。  
――――――――――――――――――――――――――――――   メキシコ大使ビスカイノはサン・フランシスコ二世号に乗ってメキシコに帰るつもりでした。しかし、彼は日本人を「猿(さる)」と呼んでバカにしていました。彼はソテーロ神父に向かって、「あなたも常長たち日本人もメキシコに連れて行かない」と言い張りました。その会話を聞いていた常長はソテーロに言いました、
  「手前は主命で何としてもスペインに行かねばなりませぬ。それがかなわぬときは、腹を切って殿にお詫びせねばならぬ。腹を切るときはビスカイノ殿に道連れになっていただく。手前と共に地獄に行くか、はたまたスペインに行くか、ご返答願いたい」と、例の優しい声で言いました。ソテーロの通訳を聞いたビスカイノは笑い出しました。
  「猿の分際でわたしを脅迫するのか。わたしに手が届く前にお前は八つ裂きになっているぞ」
  つぎの瞬間、常長は跳躍してビスカイノの顎を蹴り上げました。仰向けに倒れたビスカイノにまたがり、大刀を抜くなり、ビスカイノのカラーを貫いて床に突き立てました。大刀の刃がわずかに首筋に当たって血が流れました。
  常長はついで脇差の鞘につけてあった小柄(こづか)を抜き、ビスカイノの反対側のカラーを貫いて床に打ち込みました。そしてビスカイノの胸にしっかりと腰を下ろして、切腹しようとしました。おどろくべき早業でした。
ビスカイノはソテーロ神父に必死で頼みました。
  「わかった。わかった。二人ともメキシコに連れて行く」
ビスカイノは誓約書を書いて常長に渡しました。  
  それでも、ビスカイノは執念深かった。彼は日本人を置き去りにして修理の出来たサン・フランシスコ二世号で秘かに日本を脱出しましたが、嵐で難破して、やっと浦賀にもどり、バウティスタ号に乗せてもらうよう懇願するほかありませんでした。

支倉使節団の旅
 1613年10月28日(慶長18年9月15日)、バウティスタ号は牡鹿半島の月の浦(石巻)を出帆しました。乗っていたのは、正使支倉六右衛門常長と随員の仙台藩士ら12名、幕府船奉行向井将監忠勝の家臣10名、サン・フランシスコ会宣教師ルイス・ソテーロ、メキシコ大使ビスカイノらスペイン人40余名、そして日本人商人たちで、総勢180余名だったと記録されています。  
  船は金華山沖で東北東に針路を取り、黒潮〜北太平洋海流〜カリフォルニヤ海流に乗って北米大陸沖を南下し、1614年1月25日(慶長
18年12月16日)ついにメキシコのアカプルコに入港しました。  
  常長と彼の部下たちは何かのトラブルに巻き込まれて、アカプルコで迫害を受け、メキシコ総督は彼らの安全を守るよう布告を発したそうですが、そのトラブルの内容はわかりません。  
  迫害に加え、バウティスタ号を長期間アカプルコに繋留する維持費として5万ペソもの大金が必要と分かって、常長は欧州行きをあきらめて日本に引き返そうとしました。  
  しかし、メキシコ総督はじめ大司教、宗教審問所、高等法院などの高位の人たちは常長を励まし、必要なもの一切を援助するからスペイン本国に渡るよう勧めました。  
  メキシコ市では、支倉使節団は大歓迎を受け、高官たちが常長のもとを訪れ、常長はメキシコ(ノビスパニヤ)副王に政宗の親書を呈上しました。一行のうち78名の日本人がカトリックの洗礼をうけましたが、常長はスペイン本国のマドリードで洗礼を受ける事を望んだと言われます。   
  5月8日支倉使節団はメンバーを約 30名に絞ってメキシコ市を出発、大西洋岸に向かい、6月10日、スペイン艦隊に 同乗してサン・ファン・デ・ウルーワ港から出航、キューバのハバナを経由して10月27日にはスペイン本国のサン・ルカル・ デ・パルラメダ港に到着しました。日本人初の大西洋横断です。次いで、旧都セビリアで市長に政宗の親書を渡し、進物を贈呈。全市あげての歓迎をうけました。  
  12月20日首都マドリードに着き、 1615年1月30日常長は国王フィリ ペ三世に拝謁し、政宗の親書と申し合わせ書を渡しました。これは八か条から成る友 好通商条約でした。わが領民をキリシタンとするためサン・フランシスコ派の宣教師を送ってほしい。宣教師を厚遇する。スペイン船を歓迎し、自由に売買させ、便宜を与える等を約束したものです。そして、国王や多くの名士たちの列席する中、常長はサンフランシスコ洗足派尼院で洗礼を受け、「ドン・フィリッポ・フランシスコ」という霊名を与えられました。  
  8月22日、支倉一行はマドリードを発ってローマへ向かいます。ローマは最大の花舞台でした。11月3日に法王パウロ五世に拝謁、常長は金箔の和紙に書かれた政宗の法王宛て奉書を朗読し、捧呈しました。 その態度は好感を与え、法王は他国の大使以上の破格の待遇をもって支倉常長を遇しました。ローマ市議会は支倉をローマ貴族とローマ名誉市民に列するとともに、随員たちを含めて支倉にローマ市民権を授与しました。  
  支倉使節団がスペインのマドリードに もどってみると、スペイン側の態度が悪化 していました。多分日本でのキリシタン迫害が増大しつつあったことが原因でしょう。支倉一行はスペイン艦隊でメキシコに送り返され、彼らはアカプルコからフィリ ピンのルソンにバウティスタ号で帰ってきました。しかし、スペイン軍からオランダ軍と戦うためにバウティスタ号を貸してほしいと要請されたため、常長が断わり切れず貸したところ、戦いはスペイン軍の敗北に終わったので、バウティスタ号は返ってきませんでした。やむをえず、支倉使節団は1620(元和6)年8月便船で仙台に帰ってきました。

常長の最期(エピローグ)
 太平洋と大西洋を往復しヨーロッパまで行ってスペイン国王とローマ法王に拝謁し、通商条約の締結や宣教師派遣の要請という任務を成し遂げた支倉常長は英雄として称賛されるべき功臣でありますのに、帰国してみれば国内事情は一変して、 彼は国禁を犯した罪人として処刑されねばならぬ立場におかれました。主君政宗は常長の命を助けるために、光明寺の住職に 常長が光明寺の檀家であってキリシタンではないという証明書を書かせたといわれます。これにより常長は断罪を免れて、「かくれキリシタン」として大郷町に隠棲し、1622(元和8)年に帰天しました。  
  常長の息子常頼は1668(寛永17)年に召使がキリシタンであったとの理由で責任を問われて斬首刑に処せられ、支倉家は断絶しましたが、その子常信の代に赦されて、家名を再興することができました。  

  悲劇と言えば悲劇ですが、常長の心境は天主の御心に従い、不思議な聖寵に守られて前人未踏の壮挙をなし遂げた達成感に満たされていたのではないでしょうか。
「我裸にて母の胎を出でたり又裸にて彼処に帰らん。
主あたへ、主とりたまふなり、主の御名はほむべきかな」 (ヨブ1:21)。
                                     アーメン

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