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東北キリシタンの父
           [][とう] 寿庵[じゅあん]       ヨハネ 皆川尚一
                   
先祖は隠れキリシタンだった
 わたしが後藤寿庵を身近かに感じたのは、2001年の7月に、わたしの父の故郷 岩手県東磐井郡藤沢町を訪問してからでした。その町の大籠地区には町営のキリシタン殉教公園があり、クルス記念館が建てられていました。
  西暦1640年伊達政宗による弾圧で、大籠地区では、斬首刑、銃殺刑、十字架刑等によって、300名余りの殉教者が出ましたが、その後は厳重なキリシタン摘発の目をのがれ、隠れキリシタンとして信仰を持ち続けた人々がいたらしいのです。
  そして、わたしが本家を訪ねたときに仏壇の下に大切に保管されていた仏像を見せてもらいますと、それは厨子の中に黄金の十字架を描いた「隠れキリシタンの仏像」でした。その観音像の指の形は広隆寺の弥勒(ミロク)菩薩と同じで、キリスト教の三位一体神への信仰を表わすものでした。なんと、わたしの先祖は「隠れキリシタン」だったのです!
  しかも、この地区だけでなく、東北地方一帯に住む約3万人ものキリシタンの保護者として活躍した後藤寿庵というキリシタン武将は、藤沢城主岩淵近江守秀信の次男でありました。そこでわたしはこの後藤寿庵について詳しく調べましたので、紙面の許す範囲で書いてみたいと思います。

後藤寿庵の経歴
  後藤寿庵は、岩淵近江守(藤沢城主)の次男として1568年ころ藤沢町に生まれ、幼名を又五郎といいました。岩淵家は源頼朝の命によって奥州藤原氏を滅ぼしてこの地方を支配した葛西家の一門です。これより前、同じく葛西家の家臣であった千葉土佐守(森合城主)は、1558年備中の国戸坂山に住む製鉄技術者布留(ふる)大八郎・小八郎兄弟を招いて製鉄と鉄砲製作に当たらせました。彼らは大籠の千松(せんまつ)に住んだので、千松大八郎・小八郎と名乗りを変えて、地元の農民たちを指導して製鉄及び鉄砲製作を盛んにしました。凶作につぐ凶作で農民たちは生活に困窮していましたが、鉄鉱夫として働くことにより、生活の安定を得ました。又、千松兄弟は熱烈なキリシタンでしたから、熱心にキリスト教の布教に努め、農民たちはキリストを信じて心の安定を得ました。

  その後、1590(天正18)年豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、奥州諸藩は出兵遅参の咎めによって城明け渡しを秀吉に命じられました。しかし、葛西家一門はこれに屈せず佐沼城に籠って奮戦するも、秀吉軍の猛攻に衆寡敵せずして落城しました。父も兄も討死したので、藤沢城を明け渡した又五郎は、何時の日か家の再興を夢見て西国に走りました。
  彼は長崎から五島列島の最北端の宇久島(うくしま)に渡りました。それは彼の生家が平氏の末裔であり、宇久島が平家の落人平家盛(たいらのいえもり)の支配した島であったからかも知れません。いや、それ以上に、キリシタンの宣教師に出会い、キリストを信じて、キリシタンの信仰により深く養われるために必要であったのではないか、そこに神様のお導きがあったのではないかと思われます。彼はキリシタンの洗礼を受けるとヨハネ(スペイン読みでジョアン)という霊名をもらいましたが、つくづく考えました、
  「あぁ、有難いことだ、わたしは天主の恩寵を受けて、六根の汚れを洗い、これによって永遠の救いを得る身に生まれ変わることが出来た。自分は浮浪の身として本姓を名乗っているのは先祖の令名に対し恥ずべきところがある。この五島の地で生まれ変ったのだから、ここをわが故郷として五島と改名しよう」と決心し、五島寿庵と名乗ることにしました。  

  宇久島で成長した寿庵は信仰のみならず、南蛮文化を吸収し、西洋文明の様々な知識や学問・技術を身につけました。特に、火薬・製鉄・鉄砲作り・鉄砲の操作、及び治水・土木・築城等の才に長けていました。
  やがて、京都の豪商田中勝助がイスパニアを視察して長崎に帰ってきたとき、寿庵は船の中にいる勝助を訪問して語り合いました。すると勝助は、
「あなたとわたしとは、今初めてこの地で逢ったのに、信仰も志も割符を合わせるように一致するとは、ひとえに天主のお導きによるのでしょう。ぜひ、わたしの故郷の京都に来て下さい。力を合わせて布教のためにつくそうではありませんか」 と懇切に語りました。そこで寿庵は大いに感激し京都に行って勝助の家に滞在しました。  
  そのころ伊達政宗はかねてお気に入りの田中勝助が西洋から帰国したという噂を聞いて、家臣支倉六衛門常長を京都に遣わし、西洋の国情を質問させました。そのとき勝助は常長に五島寿庵のことを紹介し、ぜひ政宗公にご推挙願いたいと申し出ました。常長は五島寿庵が本名岩淵又五郎であり、自分の血縁にあたることも知って、これを快諾し、寿庵と共に仙台に帰って行きました。  
  政宗は、かねて京都に在るとき側室お縫い殿が難病に罹って危険であったが、キリシタンの宣教師の医術によって奇跡的に癒されたので、お縫い殿もキリシタンになったという経緯もあり、支倉常長を西洋に派遣して、貿易を振興し、あわよくばイスパニアを征服しようとの野心を抱いていたので、後藤寿庵の来訪を大喜びで迎えました。そして、寿庵を1200石で召抱え、胆沢郡(いさわぐん)福原と見分(みわけ)の領主とし水沢に館を築く事を許したのです。このとき政宗公は家臣後藤肥前守信康の義弟として、後藤寿庵と名乗るように命じました。

後藤寿庵の活躍
  政宗の家臣として重用された寿庵は、キリシタン宗徒として宣教師カルバリヨと心を合わせて布教のために努力し、東磐井、西磐井、本吉を中心とした、千松大八郎・小八郎兄弟の布教と相俟って、江刺、和賀、胆沢、登米、栗原等の各郡におよびました。そし福原の信徒は450人となり、水沢に天主堂が建てられました。寿庵は各地に散っていた、かっての一族旧臣百余人を集めて「寿庵館」の側に住まわせました。その一族家臣はことごとくキリシタンとなりました。彼は熱望していたお家再興の願いを果たしたのです。また更に、見分村、矢森村、志津村にも天主堂が建てられました。
 
  また、一方では、砂漠のような福原の地を沃野とするために、胆沢川の水を引いて寿庵堰を築き、水田の開発に努めました。また、領民の年貢を四割免除していました。
  又、武将としての寿庵は1616年の大 阪冬の陣に伊達政宗の鉄砲組100名を率いて出陣し、翌年の大阪冬の陣には鉄砲組60名を率いて出陣しています。

隠れキリシタンとなる
  さて、1611年に徳川家康による第1回キリシタン禁止令が発令され、それが次第に全国的に拡大されて、これまでキリシタンを保護・容認してきた仙台藩でも、1620年にキリシタン禁止令が布告されました。1623年には寿庵の身にも危険が迫り、政宗は何とか助けたいと願いましたが、寿庵は政宗の恩義に対して感謝しつつも、信仰を捨てることは出来ないと回答して、いずこともなく逃亡しました。  
  その後、寿庵は南部領の岩崎に隠れ住み、東北一帯のキリシタン信徒たちを励まし助けて、地下活動を続けたのではないかと考えられています。 現在の登米市東和町米川に後藤寿庵の墓と伝えられるものがありますが、これは元来記念碑であったものが発見され、後にその傍らに墓が作られたものです。

隠れキリシタンとは何か 
  隠れキリシタンと言いますと、何か臆病な弱々しい生き方のように誤解される虞れがあると思いますが、わたしはそうは思いません。「隠れ」は英語で言えば「ステルス」ではないでしょうか?つまり、「キリシタンと見えないように偽装しているが、キリシタンの本質と目的を達成するために積極的に生きている人」と定義したいと思うのです。それは堂々と殉教する人に優るとも劣らない信仰のエネルギーを必要とします。刀の鍔に、襖の取っ手に、一寸した飾りの中に十字架を忍ばせて礼拝しながら生きて行く驚くべき知恵は、耐え忍んで信仰と真理とを守りぬこうとするわれら
日本人すべての誇りではないでしょうか。              アーメン

参考文献
・「岩手藤沢の余光」 藤沢町教育委員会編・発行 昭和62年
・「仙台領切支丹史」 解説・編集 西田耕三 古キリシタン研究会・刊
・「大籠の切支丹と製鉄」 藤沢町文化振興協会・発行
・「東北ふしぎ探訪」 歴史・民俗のミステリーを歩く 黎明舎出版・刊
・「みちのく殉教秘史」 〜「隠し念仏」と「隠れ切支丹」をめぐって〜
 及川吉四郎著 本の森・発行
・「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著 時事通信社・刊
・「かくれキリシタン」 〜歴史と民俗〜 片岡弥吉著
・「隠された十字架の国・日本」 シニア&ジュニア ケン・ジョセフ 
 徳間書店・刊

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