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日 米 混 血 児 の 母
           [さわ][] 美喜[みき] (下)     ヨハネ 皆川尚一
                   
自己犠牲と救いの手
 このレポートの(上)で述べた通り、エリザベスサンダース
ホームの事業は敷地の取得からホームの設立、その運営に
いたるまで、莫大な資金を必要としました。最初は米軍の占領と財閥解体政策によって、財産税のため政府に物納された大磯駅前にある岩崎の別荘を買い戻すために、400万円をつくらなければなりませんでした。終戦時の400万円といえば大変な金額です。  
  これまで三菱大財閥の令嬢であり、日本の国連特別代表の令夫人であった美喜はお金に不自由したことがなく、金はどこからか湧いてくるものだと思っていました。ところが今度は自分の手で、湧かしてみなければなりません。それで、「お金がほしい」「お金がほしい」と口癖のように言うようになりました。知人、友人たちがみんなびっくりして「えっ、あなたが?お金を?」と言いました。  
  美喜は必死でした。先ず自分の持っている物でお金に替えられるものをことごとく売りました。その具体的な方策としては、東京駅前の東洋一といわれた有名な(旧)丸の内ビルディング(通称丸ビル)内のショッピングモールに店舗を借りて「土産物店」を出したのです。この商店街には外人が日本の土産物を買いに大勢おとずれるので、「宮田刺繍店」など色々な店がありました。  
  また、ある年の年末にはいろいろなものを売り払って借金を返しましたが、大晦日に最後の借金取りがひとり残りました。これが一番大きなお金です。彼女はとっさにある考えが浮かんで、彼に言いました、「今夜、
8時にまたきて下さい。なんとかお支払いする方法を考えますから」。
まず、追い帰すことには成功しましたが、何か金目のものはないかな――」と自分の部屋を捜すと、ベッドの下にある大きな木箱が目に留まりました。取っておきの祖母からの贈り物、それは明治大帝からのご下賜品
で、菊のご紋章のついた銀の大花瓶でした。それを風呂敷につつんで、汽車に乗りました。大みそかの銀座を果てから果てまで、足がしびれるほど、歩きまわりましたが、大晦日に現金をもっている人なんてありませんでした。業者に金ほしさのあがきを見透かされて買い叩かれました。明治大帝も、菊のご紋章も何のききめもなく、ただ銀の目方だけの値段に値切られて、結局手に入ったのは必要の半分にも満たないお金でした。  
  がっかりして汽車に乗り大磯の近くにさしかかった時、前の席にいた老人が声を掛けて来ました。「もしや、あなたは昔北京におられた澤田さんでは」「はい、そうですが」と答えると、その人は北京で借りたお金を返すつもりで訪ねて来たというのです。「ありがとう」といつて状袋をうけとる言葉と同時に汽車は大磯駅にすべりこんだので、美喜はあっけにとられているその人を残して、家に駆け込み、その状袋を開いてみると、銀座で作ってきたお金に足せば丁度支払い分になるほどの金額でした。  
  美喜は困ったときにポーカーフェース(何食わぬ顔)を使うことを覚えました。暗い顔は保母や子供たちに直ぐ伝わります。経済上の不安をだれにも知らせないようにしました。そうして祈っていると救いの手が現われるのです。早すぎず、遅すぎず、必要なものだけが送られてきます。「神様、同じ助けるならもう少し早めに喜ばせてくれれば良いのに」と思ったりしました。

ブラジル移民の夢
  さて、場面変わって、「ママちゃま」と子供たちにまつわりつかれ、子供たちの世話をする美喜のその姿を見て、だれがあの三菱大財閥の令嬢と思うでしょうか。髪の毛はばらばら、着ている洋服も子供たちの鼻汁でよごれ放題、手足もざらざら、美喜は自分をかまうより、子供たちの方に手が行ってしまいます。  
  ママちゃまはよく「肌の色は違っても、血の色は同じなのよ」と言っていました。
  こうして2年、3年と年月を送っているうちはまだ良いのですが、だんだん成長して18歳になればホームを出て、社会人として差別に耐えて、自活しなければなりません。それに耐えられる強い子供に育てるというのが美喜の教育方針でした。しかし、弱い子供はどうしたら良いか。彼らのためには人種差別のないハワイかブラジルに日本人村を作って混血児たちに農業をさせたらどうかと彼女は考えました。しかし、ハワイは米国の一州であって厳しい法律があるので、養子となって行くほかに道がありませんでした。そこで南米のブラジルに移民する道を考えました。
  日本人のブラジルへの正式な移民は、1908(明治41)年に神戸港から出帆した笠戸丸に始まります。ですから去年で満100年になるわけです。この100年の歴史の流れには色々な出来事がありました。最初は土地が有り余るブラジルでは、農業労働者が不足しており、かたや日本では農村が貧しくて日本政府は海外移民を大いに奨励したのです。それまで最大の移民受け入れ国であったアメリカが日系人に対する人種差別から、1920年に受け入れを拒否したため、ブラジルが最大の日本移民受入国となりました。移民たちは南部のサンパウロ州では、サンパウロ市を中心に19箇所におよぶコーヒー農園で働きました。1927年日本最大の企業グループ三菱のオーナー岩崎家が経営する東山農事(株)がカンピーナス市郊外の大型ファゼンダ(農場)を購入しました。岩崎久弥は営利事業の三菱とは別に、社会貢献を目的とした東山農事をつくり、農牧林業を主に、短期間では採算ベースに乗りにくい諸事業を手がけ、その成果を社会に還元したのです。そのほか南米拓殖等様々の日本人が、パラー州、アマゾナス州などにも入植しました。アマゾンは日本人には保健上、危険地帯であるという理由で、日本公使館が入植を禁止したにもかかわらず州政府の導入策により入植は続けられました。
  1954年、美喜はブラジルに渡ってサンパウロ州からパラー州までの24箇所の日本人入植地を視察してまわりました。その結果、彼女の知ったことは、既成の楽園などはない、楽園とはそれを造り得る所を発見し、自分たちの手によってそれを楽園たらしめることだということでした。成功者は必ず自分で土地を開拓し、最初の一本の木から自分の手で伐った人たちでした。彼らは土地に愛情を持ち、どんなに不作の年が続いても手放さなかったのです。しかし、上記の2州はすでに開拓しつくされていたので、1961年の秋にアマゾン川流域のトメアスウの開拓地にある300町歩(3km四方)の原始林を購入するに至りました。その付近には既に幾つもの大農園が出来ていました。
  日本に帰った美喜は、ホームの一隅に「アマゾン教室」と名づけた実習室をつくりました。これは、ブラジル行きを希望する子供たちに、よき開拓者の教育と実習を受けさせ、かの地に立派な楽園を築き上げさせるためのものです。
  そのアマゾン教室では色々な授業があったほか、元日本陸軍航空機関士で、現澤田美喜記念館館長の鯛茂(たい しげる)氏の工作機械エンジンの分解や組み立ての授業がありました
  また、子供たちは小岩井農場で農業の実習をしました。

聖ステパノ農場の開拓
  そして、1963(昭和38)年9月2日一般から選抜された5人の先発隊がアマゾンの聖ステパノ農場に向け出発しました。 また、2年後の1965(昭和40)年に卒園生第1陣6人が日本を出発してベレンに入港しましたが、そのうち高橋龍二さんは下船したので、聖ステパノ農場に入植しのは5名でした。彼らは大原始林を伐採し、そこに黒胡椒栽培の大農園を建設しました。現在、従業員たちの宿舎、美喜の住宅、教会兼ゲストハウス、集会所、診療所、合掌造りの倉庫等を建て、汲み上げタンク方式の上水道、下水道等の残骸がありますが、建てられた順番や年代等は不明です。将来は卒園生を30人位送り込み、美喜自身も移り住む予定でした。しかし、いろいろな事情があって計画は実現せず、10年後の1975年には農場を売却することになりました。
  卒園生のうちで今消息が分かっているのは、フジテレビ制作のDVD「家路」に出てくる、久保木広和、藤島 富(とむ)、赤沢譲次、中川純二、高橋龍二等9名です。久保木さんは入植後一ヶ月でマラリヤに罹って一年後には農場を出たらしいです。今はリオデジャネイロ郊外の高級ショッピングセンターの寿司レストランで「寿司職人」として働き、妻のホジーさんと一緒に暮らしています。また、ひとり娘のタリヤ美喜さん(ママちやまに名をもらう)夫婦と、孫のカワンちゃん(2歳)は近所に住んでいます。
  藤島さんも現地で結婚しましたが、2人の子供の教育のため日本に帰国し、妻と長女と孫2人と共に豊田市に住んでいます。
  赤沢さんは、入植しましたが、「野球ばかりしていて聖ステパノ農場を追い出され」(本人の弁)、1年後に独立して胡椒農園を造りました。彼は美喜の世話で結婚し、3人の息子をもうけ、一時は150人の雇人を持つ大農場主として成功しました。
  中川さんは、まだトメアスウの聖ステバノ農場のあった町に留まって息子の雄二さんと2人で農業を再開しました。現地で農協に勤めていた松江さんと聖ステパノ農場の教会で結婚式を挙げたとき、親族代表として日本からママちゃまの美喜も駆けつけて祝福しました。日本に出稼ぎに行った3人の子のうち次男の雄二さんが伝統を大切にしなくてはならないと決心してブラジルに帰ってきて、トメアスウが好きだからここで働くと言いました。最近、娘さんも帰ってきました。大規模農業が主のブラジルで、家族的な農業をやるわけで、最初に美喜が植え付けた開拓者精神がまだ生きていると言えるでしょう。卒園生たちは各自、生きる目的と自分の家族とを得たのです。

隠れキリシタン遺物の蒐集
  また、場面かわって1936
(昭和11)年6月、澤田美喜は
アメリカから日本に帰国するために乗船した白山丸の図書室で日本キリシタンの殉教者たちに出会いました。その本のタイトルは分かりませんが、昔のローマの殉教者たちにも優る美しい殉教が日本にもあったことを初めて知ったのです。帰国してからキリシタンの殉教史をひもとくうちに、海外で飽きっぽいと批評されていた日本人が命を賭し血を流して真理と信仰とを守り通し、戦いぬいてきた跡を見て、全世界に向けて叫びたくなりました。
  「我々日本人の血の中には、全世界の宗教史上に比類のない試練と迫害を受けても、敢然として正義に突き進む勇気と信念とがあったのだ。誇るべき我々民族の血の中には、目前に肉眼をもってみうる現象によって曳かれ進むのではなく、形なく目もてみざる、手に触るることなきものの実在を信じて、これを求める確信と信念で動くものがあるのだ」と。
(「大空の饗宴」序文より引用)
  それから40年、美喜はキリシタンに
魅せられて九州の島々を巡り歩き、約
1000点を越える数の遺物を集めまし
た。殉教者たちの子孫が大切に守って
きた品々に彼女はつよい信仰の息吹きを感じたのです。
  そして、この数十年間混血の子供たちを守り育てる仕事の中で、彼女はいくたびとなく、これらの遺物の前で祈り、力づけられたか知れません。「これらの遺物を納めた澤田美喜記念館は自分自身の『かけこみ寺』であつた」と、彼女は「キリシタン記念館建設趣意書」(1980年4月)の中に記しています。
  幾多の試練の中で、失望と悲嘆と涙と怒りのとき、この「かけこみ寺」は彼女に光と希望と忍耐とを与えてくれたからです。彼女はここを魂の療養所とし、超教派の信徒の「一致教会道場」とし、平和を愛する信仰をもりたてて行きたいと願っているのであります。この趣意書は美喜の遺言となりました。

澤田美喜の祝福  
  澤田美喜は1980(昭和55)年5月にスペイン・マリョルカ島パルマ市からの招きを受けて講演をするため、妹福澤綾子と共にマリョルカ島に渡りました。そこで体調を崩して入院し、心臓麻痺で帰天しました。享年78歳でした。
  この旅は、卒園生たちの落ち着き先を捜す目的も兼ねていたのです。美喜は最後まで子供たちの「ママちゃま」でした。
  鯛 茂氏は「ママちゃまと共に」と題する講演(2000年、鳥取県岩美町)の中でこう述懐しています、「5月16日に亡くなられて、1週間位かかって遺体が帰ってきました。その遺体が本当にちゃんとしていました。生きているような遺体です。私はちょっと触ってみたんです。ほっぺたも柔らかいのです。生前のままです。そしてあんなに優しい寝顔でした。そしてその寝顔を教会にしばらく置いたんですけど、本当に触っても暖かいのです。冷たくありませんでした。本当です。澤田美喜も聖人に近い人なんじゃないか、と私は思いました」と。
  彼女の祝福は、自分を理解し愛してくれた父久弥、夫廉三、長男信一、次男久雄、長女恵美子、その他の家族・親族の和と協力の手に強く支えられ、彼女を尊敬し、支援する協力者・友人たちの愛と信仰の輪に包まれていたことにあります。彼女はまた、それを受けるに相応しい高貴な人格と教養の持ち主でありました。
  例えば、親友の駐日フランス大使夫人ヨランダ・ド・オルムッソン著「子供の国から」を美喜が翻訳した日本文の流麗さ。また彼女が施した表紙から裏表紙までの装丁の簡素にして華やかな美的センス。17点に及ぶユーモラスな挿画(バレーを踊る少女や動物たち)の数々。マリー・ローランサンのアトリエで身につけた技術でしょうか、ただ感嘆するばかりです。
  更に、「大空の饗宴」と題する隠れキリシタン遺物に関する著作は、約60点の遺物の写真に添えられた説明が彼女の熱心な研究の成果を物語っています。この本の和式プラスフランス式の装丁の凝り様はどうでしょうか!この2冊はまさに宝物の名に価すると思われます。  
  また、イギリスのドクター・バーナードス・ホームの園長バーナードス博士が言った「哀れな子供をただかわいそうだと言って頭をなでるのではなくて、あなた自身が哀れなものだと、頭を人になでられるようにならなければ、この仕事は成功しませんよ」という忠告は、美喜の上に実を結んだのです。ブラジルに行った卒園生の高橋龍二さんがDVDの中でママちゃまのことを「彼女は淋しい人だったんだと思うよ」と述懐していますが、可哀想な子供たちから同情を寄せられる美喜は真の成功者になったのだと思います。  
  また、DVD「家路」の中で、ブラジルに行った卒園生の藤島 富(とむ)
さんは、長女の富江さんがいじめに遭って辛いときに、澤田さんのいじめられて辛かった日々のことを話して慰めました、「おばあちゃんは、日本の国のために親のない子供たちのホームを造って育ててくれたんだよ。
日本の国のためなんだよ」と。富江さんは涙を流してそれを聞き勇気を得ました。つまり美喜は日本の国を贖うための愛の苦しみをキリストと共に担ったのだと思います。それを子供たちもわかってくれて、大人になってから家族に話して聞かせているのです。美喜はすでに帰天してキリシタンの殉教者たちと一緒にパライソ(天国)のグロリア(栄光)を受け、大空の饗宴に与っていることでしょう。                   (おわり)

参考文献
澤田美喜記念館建設趣意書 1980年4月
澤田美喜記念館見学ガイドブック 平成16年4月1日 第2版
エリザベスサンダースホーム(案内書) 昭和60年3月1日現在
エリザベスサンダースホーム(案内書) 平成18年3月31日現在
「澤田美喜記念館」賛助会会報 第5号(1989年)
「澤田美喜記念館」賛助会会報 第39号(2008年3月)
「思い出のママちゃま」(写真集)
「ママちゃまと共に」鯛 茂講演会記録 
             梧山塾レポート第二号(2000年3月)
「聖ステパノ学園小学校・中学校(学校案内)」 2006年増刷
「黒い肌と白い心」――サンダースホームへの道 ―― 澤田美喜著                  昭和38年10月25日 日本経済新聞社刊
「大空の饗宴」日本版〔限定300冊〕澤田美喜子著 昭和18年9月1日
          青燈社刊
「子供の国から」ヨランダ・ド・オルムッソン著 澤田美喜子翻訳・装丁
           昭和15年6月30日 国際出版印刷社刊
「ブラジル日系社会 100年の水流」外山 脩著 2006年8月
             トッパン・プレス印刷出版有限会社刊
「混血児の母となって――澤田美喜――」神戸淳吉述 《「光をかかげて」
     日本篇 愛と勇気に生きた信仰者たち pp.7〜18》 ヨルダン社刊
「家 路」2008年放送のフジ・テレビ制作番組
「日本キリシタン殉教史」片岡弥吉著 昭和55年 時事通信社刊
「かくれキリシタンの聖画」中城 忠写真、谷川健一編集 1999年
                 日本写真印刷株式会社刊
「かくれキリシタン」歴史と民俗 片岡弥吉著 NHKブックス
            昭和48年5月20日第5刷 日本放送出版協会刊

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