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日 米 混 血 児 の 母
           [さわ][] 美喜[みき] (中)     ヨハネ 皆川尚一
                   
混血児はどうして生まれたのか
 勝利を誇る占領軍にとって、占領の落とし子として生まれた、この混血の子供たちのことに触れられるのは、痛いところだったのです。  
  わたしの家はアメリカ海軍基地の町横須賀にあり、わたしは終戦直後の一年間米海軍基地に勤務していましたから、米軍が進駐してきてから起こった米軍将兵による凄まじいレイプ事件を20歳の頃から見て来ました。もう戦争は終わったというのに、昼も夜もそれは起こりました。米兵を取り締まるMPやSPと呼ばれる「憲兵」たちもどんどんレイプしていたので、歯止めが利きませんでした。海軍基地内はもとより、基地周辺の市街地や郊外地の路上、そして日本家屋に侵入してくるのです。人妻・娘・12,3歳の少女たちにまで被害者はひろがりました。  
  もちろん、横須賀だけでなく、全国約135箇所の米軍施設のある町村にその被害はひろがりました。パンパンと呼ばれる米兵相手の娼婦たちは、そうした被害者たちの中から生まれて、見る見るうちに数を増して行きました。  
  日米混血児は主としてそうした被害者たちの産んだ子供たちだったのです。 GHQ(占領軍総司令部)は、その実態を知られたくないために、進駐直後の1945(昭和20)年9月22日にラジオコード、23日にプレスコードを発令してラジオと新聞に対する「報道規制」を行いました。その結果、多くの日本人が米軍の日本占領は平和のうちに何事もなく進められたように錯覚するようになりましたが、終戦後7年たってもこの情況は改善されませんでした。  
  エリザベスサンダースホームにはこうした混血児たちが全国各地から委託されて来ました。占領軍としては、出来るだけ目立たぬように、日本中に散らばしておきたかったのだと思います。

サムス代将との口論
  「澤田は混血児を集めて反米感情をあおり、左翼や共産党に反米の材料を提供しているのだ」という声が(その方面から)聞こえてきました。
  澤田の知人である善意のアメリカ人たち7人がお金を集めて寄付してくれたので、まず清潔なベッドを数台整えて、白い清潔なシーツを敷き、子供たちをそこに寝かせました。すると、他のアメリカ婦人のグループが言いました、
「この孤児たちをべッドに寝かせるのですって? それはぜいたくです。
日本人は日本人らしく床(ゆか)にごろ寝させればいい―――」  
  敗戦後の日本は、東京から横浜まで完全に焼け野原で、人々は焼け跡に穴を掘り、焼けトタンを寄せ掛けてごろ寝していました。道路でも、ガード下でも、駅でも、列車内でも床(ゆか)に坐ったり、ごろ寝したりするカーキ色服やモンペ姿の日本人が大人も子供も多かったのです。  
  そうした心ない発言は、澤田の闘志をあおるのに充分でした。彼女のとさかは逆立ち、顔のエラはふくれあがりました。「女・梅ケ谷」はシコを踏んで、皇居前の第一生命ビルに陣取った「GHQ」に乗り込んで行きました。
 
  GHQの医療・公衆衛生・福祉局のトップはクロフォードL.サムス代将で、日本人の頭にDDTを降りかけたり、ワクチン予防接種をしたり多忙でした。ちなみに「代将」とは、佐官級の最上位で「准将」の下に当たります。  
  そのサムス代将に面会した澤田は言いました、
「なぜ、わたしの混血児の施設がお気に入らないのでしょうか。これがいけない、あれが悪いといわれても、この子供たちは日本国民であり、日本の国籍を持っています。日本人が日本国籍の子を育てるのに、どうして進駐軍が指図しなければならないのですか。ただし―――ただし、進駐が終わって、日本を引きあげられるときに、アメリカ人を父とした子をみんな連れて行かれるというならば、今からでも、司令部の指図に従いましょうが――――」  
  ほがらかな代将の目は、ギョロリと光りましたが、澤田は続けます、
「司令部の夫人の中には、孤児をベッドに寝かすなどはぜいたくだ、と言われる方々があるそうですが、そんな法令があるなら、どうぞ見せて下さい。もしも、あなた方の子供さんが床にころがって寝ていたら、きっと非衛生的だからベッドに寝なさいと言われるでしょう。どうして、同じ子供でありながら、私のところの子供はベッドに寝てはいけないのですか」
「孤児は全国に散らして一ヵ所に集めるな、と言われますが、それは進駐軍の指令なのですか。それなら、その記録を見せていただきたい。地方ではこれらの子供を施設に受け入れないところが多いのです。九州から、北海道から、わざわざ連れてこられた子供たちをどうしてまた捨てることができましょう。一生に一度捨てられて、それでまたもう一度捨てることなどはとてもできません」  
  彼女は次々とまくしたてました。
この小がらな、目のよく光る代将は急に話題を変えて、福井県の大地震にペニシリンを幾十箱寄贈したとか、医療品を数千箱送ってやったとか話し出しました。
「それと、これとは別のことではありませんか」 と言ったとき、相手はやや気色ばんで、灰皿に手を掛けました。彼女は瞬間、これを防ぐためにどうしてやろうかと考えました。靴を脱いで、投げつけようかと思いました。と、その時、救いの手があらわれたのです。急に非常ベルが館内に鳴り響きました。これは火災時における非常訓練のベルでした。二人はそのまま外に走り出てしまったので、この緊張した空気もはぐらかされ、まるで何もなかったような顔をして、勝負は「引き分け」に終わりました。

捨てる人、助ける人
  さあ、それからというものは、目に見えぬいろいろな圧力が、澤田の頭上に火の粉のように降り注いできました。彼女がホームを投げ出すか、店じまいをするか、子供を散らしてしまうか、手をかえ、品をかえて仕向けてくるのですが、彼女の闘志はますます燃え上がるばかりでした。「なにおッ」という意地も出て、最後まで戦う決心をするのでした。どんなに波風がきびしかろうとも、子供たちを守り通すことに生命をかけようと心に誓いました。  
  しかし、強がる者ほど心の中は弱いものです。彼女の外なる心はドンキホーテのごとく大見得を切りますが、内なる心は、夜子供たちが寝静まって一日の戦いが終ると、くずれ折れるように、寝室の壁の十字架の下にひざまづいて、涙の中に祈り明かしたことも幾度かありました。  
  進駐軍の中には、アメリカ時代の知人もいました。同じ聖公会の信者も多くいました。その中には善意の人たちがいて、こっそりミルクや古着を届けてくれたり、乳児に必要なものを送ってくれたりしました。けれどもそれは長く続きませんでした。彼らは司令部のCIDに呼びつけられ、ここへ物を送ることを禁じられたのです。それでも、若い軍医が上官の許可を得て、疥癬や回虫の薬を夜中に持ってきて、11時過ぎまで治療してくれましたが、その上官も若い軍医さんも転任させられました。次にMPが来てPXの品物とか、米軍の缶詰の空き缶がないかどうか、ゴミ箱の中まで調べるのです。  
  その次は、ホームの乗っ取り計画が企てられました。あるアメリカ女性が児童心理の研究と称して泊り込み、24の乳児ベッドを一つに固めて写真を撮り、報告書の中にその写真を入れて、「乳児のベッドとベッドの間は少なくとも1メートル以上あけるべきであるのに、澤田のホームではぴったりくっつけて、子供同士が唾液を飛ばし合い、病気を伝染し合っている」と説明したのです。また、「泣く子を注射針で罰する」ともあり、これは毎日のビダミン注射のことを中傷したものです。このほかにも乗っ取り計画は繰り返されました。  
  シカゴのある富裕な未亡人が「4500ドル寄付したい」と言ってきましたが、期待を持たせたその後から、「日本からある情報を受けたので見合わせる」という電報がきました。  
  そして、最後に来たのは彼女にとって一番つらいことでした。それは、1952(昭和27)年、ニューヨークのアメリカ聖公会本部海外伝道部長のベントレー主教から、ホームの趣旨が気にくわぬからいっさいのアメリカ聖公会の援助を打ち切る、という通告を受けたのです。同時に、全米48州の各教区の主教たちにも、同じ指令が出されました。ベントレー主教は来日してホームを見に来てくれた人です。彼女は神様が白い丸カラーの美しい僧服を助けるのか、それとも神の仕事に一身をささげる一信徒を助けるのかを確かめる決心をしました。  
  彼女は基金募集のため1952年、1953年、1954年、1955年、1959年と3カ月ずつアメリカ、ヨーロッパに渡って講演をして歩いた結果、善意の人々からの多額の援助を受けることができました。そして、学校法人聖ステパノ学園小学校・中学校を創立し、学校長に就任しました。これらの学校は前述の通り、子供たちが地域の公立学校に通う場合に受けるいじめから守られ、神様を信じて感謝し、信仰と希望と愛によって伸び伸びと成長することが出来るようにという願いをこめて建てられたものです。聖ステパノ学園中学校を出て地域の高校に進学した子供たちは色々ないじめに耐えてたくましく成長して行きましたが、奨学金を得てアメリカの高校に進学する道も開かれました。  

  又、国内外の名士たちの来園も続きます。
秩父宮妃殿下(1951年)、
ジョセフィン・ベーカー女史(1954年)、
昭和天皇・皇后両陛下(1955年)、
英国聖公会カンタベリー大主教フィッシャー師(1959年)、
パール・バック女史(1960年)、
駐日ブラジル大使夫妻(1965年)、
駐日ガーナ大使(1966年)、
駐日フランス大使夫人(1979年)
等のご来園を受けて大いに祝福されて来ました。

澤田美喜の母性愛
  澤田は「家路」というフジテレビ制作のDVDの中で、「どの子も自分の子と同じでした。いや、それ以上に感じる時がある。グレて問題を起こすと飛んで行って、自分の子と同じ、いや、それ以上に世話してやりたいと思うんです」と語っています。  
  それは先ず、自分が子を産んだ経験のある母親だという原体験から発しているのです。彼女は初めは混血児を産んだ未婚の母についての理解が足りませんでした。しかし、そうした母たちと触れ合う間に、自分の間違いに気づきました。彼女たちは度重なる空襲によって家を焼かれ、家族を失い、一人ぼっちになって焼け跡をはだしでさまよったのです。レンガやガラスの破片が飛び散る町を歩いていても、日本人の同胞たちはみな自分が生きることで精一杯で、彼女たちを顧みるゆとりがありませんでした。  
  真っ赤な血のしたたる足、汗と泥と油にまみれた着衣の女たちに、履物や着替えの着物を与えてくれたのは、アメリカの兵隊たちだったのです。その親切にすがり、その親切にほだされた結果が、子供の生まれてくる原因の一つになっているのだと分かりました。どの母親も施設に子供を捨てたのではなく、自分が育てられないわが子を少しでも良い環境で育ててほしいという母性愛によって、泣く泣く子供を預けに来たのです。澤田はその母親の気持で子供たちひとりびとりをわが子のように愛しました。  
  初め1947年の乳児院の定員が30名。
1949年の養護施設の定員が50名。
1961年の定員140名。
1965年の定員120名。
そして、現在の定員は100名です。
子供の入所延人数は、1589名。大変な人数ですね。  
  こんなに多くの子供たちをどうやってわが子と同じに愛せるだろうか? と疑う人もいるでしょう。もちろん澤田ひとりで出来るはずがありません。彼女と同じ愛と信仰とをもって献身的に仕えた職員たちがいてくれたお蔭です。澤田はワンマン的に全体を抱擁し指導し、職員たちは忠実に彼女を支えたのです。  
  彼女はイギリスで、真の母親は子供を甘やかさず、転んでも自力で起きるまで待つものだと教わりましたが、そのように子供たちの自立心を養うように心がけました。
  養子縁組をする時には、相手方の両親が本当に子供を愛してくれるかどうかを確認せずには、絶対に承認しませんでした。彼女がそのようにして縁組した子供は500組以上にのぼります。
  女の子たちには西崎緑先生から日本舞踊を習わせ、お嫁に行く時には、3〜4年分の衣装(下着とかすべて)を茶箱に、布団は二組用意してやり、学校の講堂で結婚式をあげるのです。
  そして、子供たちには主の祈りを教えて天にいます父を父と思い、また、聖母マリアへの讃美を教えて完全な母のイメージを持たせるようにしました。そして、自分は「ママちゃま」の愛称で呼ばれることを喜びました。かくて「ママちゃま」の愛称は子供たちだけでなく、職員たち全ての気持ちを一つにする暖かい母性愛の象徴となりました。
                                (以下次号につづく)

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