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日 米 混 血 児 の 母
           [さわ][] 美喜[みき] (上)     ヨハネ 皆川尚一
                   
膝の上に落ちた包み
 終戦の翌年1946(昭和21)年10月のある日、澤田美喜が東海道線の超満員の下り列車に乗って岐阜の関が原にさしかかった時、細長いふろしき包みが網棚から彼女の膝の上に落ちてきました。と同時に、ヤミ物資を取り締まる移動警察官が二人、その車両に入ってきました。そして彼女が網棚にもどした包みに疑いをもって近づいてきて命令しました。
  「その包みは何だ、包みをあけろ」
  彼女は自分のものではないので、悪びれずに紫のふろしき包みを膝の上で開けて見ると、なんということでしょう―――。その中には20枚以上の新聞紙に包まれた黒 い乳児の死体が入っていたのです。  
  美喜は4人の子供を持つ46歳の母親で、この時、大学に入学する次男のために東京から京都に行く途中でした。そんなこととは知らない警官も周りの乗客たちもてっきり彼女が犯人だと決め付けました。
「こらっ!お前だなこの赤ん坊の母親は」
  しかし、両隣りの人たちはかかわり合いになりたくないために、美喜の荷物でないと知りながら何も言ってくれません。ついに彼女は次の駅で下車させられて、取調べ を受けることになりました。彼女の胸の中は煮えくり返るばかりで警官に言いました。
「だれか、この列車にお医者さんが乗っていたら、すぐここに呼んで下さい。そして、私を調べて下さい。いますぐにでも私は裸になりましょう。さあ、私が生後数日の子を産んだか、産まないか、ここで診察して下さい」
  彼女は一世一代の大見得をきって、胸のボタンに手を掛けました。このままだれも止め役が出なければ、引っ込みがつかなくなりそうでした。だが、神様は直ぐに救いの手を差し伸べて下さいました。列車のすみの方に坐っていた老人が証言してくれたのです。
  「沼津のあたりで乗り込んだ女の子が、そのふろしき包みをもって私の前を通ったのを憶えています。濃いむらさきの色がまだ私の目に残っています。そして、名古屋で降りたとき、この前を通りました―――」  
  この発言のお陰で、彼女は裸にならずに済みました。疑いが晴れたのです。

神の啓示を受けて
  しかし、その時、美喜の心の耳に静かな神様の御声がひびきました。
「もしお前が、たとえいっときでも、この子の母とされたのなら、なぜ、日本中のこうした子供たちのために、その母になってやれないのか」  
  この啓示が、彼女の残る余生をこの仕事にささげつくす決心を、はっきりさせた瞬間でした。その旅を終えて東京に帰り着くなり、3日間「黙想」の日を送りました。そしてさらに一週間、文字通り寝食を忘れて祈りつづけ、考えつづけました。
  重要な神の啓示は、突然降るのではありません。かならず準備段階が設けられているものです。美喜は1931年外交官である夫・廉三(れんぞう)のイギリス大使館赴任に伴われてロンドンに行きました。彼女は結婚後すでに東京霊南坂のメソジスト教会で洗礼を受けていましたが、ロンドンで子供たちと共にイギリス国教会(日本では聖公会)に転籍しました。そして、「ドクター・バーナードス・ホーム」という孤児院を訪問するように導かれました。そこは日本の暗い悲惨な孤児院とは異なり、明るい、希望の家、喜びの園でした。暗い表情の子供は一人もいません。その衣服は古くとも、小ざっぱりとして清潔で、ボタン一つ落ちていません。しかも、それが一つ一つきちんとはめられています。中央の十字架のキラキラ光る礼拝堂から、美しい讃美歌のメロディーが流れてきます。その声の清らかさ―――。孤児院特有の悲惨なものはひとつも感じられませんでした。  
  中には小、中、高の学校の設備もあり、職業補導の教室、実習の工場ありで、ここを法律の定めによって18歳で去るときには、その翌日から職につくだけの技能を持たされます。それまでに働いて得た預金をしっかりと胸に抱きしめて、門を出て行く青年の姿も見ました。美喜はこの日の午後、神様のお召しを感じました。そしてかたく心に誓いました。
「もしやお許したまわば、必ず日本にこの明るい子供たちのホームを延長させよう」と。その日から彼女は週に一度、奉仕者としてこのホームに働きに行きました。園長バーナードス博士は彼女に言いました。 「哀れな子供をただかわいそうだ、といって頭をなでるのではなくて、あなた自身が哀れなものだと、頭を人になでられるようにならなければ、この仕事は成功しませんよ」と。
 それから15年後の1946年6月の末、ラジオは日米混血児第一号誕生のニュースを伝えました。美喜はその日から立て続けに混血の嬰児の死体を見ました。鵠沼(くげぬま)の近くの川に浮く黒い嬰児、歌舞伎座の裏通りや、横浜の田中橋の近くのどぶから引き上げられた青い眼の白い肌の赤ん坊の死体。そしてついに列車の網棚から落ちた黒い嬰児の死体が決定打となったのです。

澤田美喜の生い立ち
  彼女は1901(明治34)年9月19日、三菱財閥の創立者・岩崎弥太郎の長男・岩崎久弥の長女として東京の本郷に生まれました。大金持ちにもかかわらず家庭生活は家族制度の下、厳格で質素を重んじ、先祖の祀りを大切に守る家風でした。お七夜の命名の夜、横綱・梅ヶ谷に抱かれて宴席に出た丸々と太った赤ちゃんを見て「男の子だったのですか?」と聞く人もいたそうです。後に男まさりの彼女は「女・梅ケ谷」とか、「女・弥太郎」とかいうあだ名をつけられますが、その負けじ魂は生まれつきのものであったのでしょう。
  御茶ノ水女子高等師範学校付属の幼稚園から中学部に進んだのですが、流行病にかかって大磯の別荘で養生していた時のことです。彼女の病室の隣の部屋に寝ていた川手看護婦が、声を挙げて聖書を読むのが聴こえてきました。
「なんじの敵を愛せよ―――。」
その御言葉は火のように美喜の耳に焼き付けられました。それは、寝る前に読んだ武士の子の敵討ちの美談に感激していた彼女にとって、正反対の教えでした。両者を比べて考える間に、「ハッ」と悟るものがありました。彼女は健康を回復して東京に帰ると、クラスメートのクリスチャンから聖書を密輸入したのです。しかし、それは祖母に発見されて、かまどの火にくべられました。焼かれても、焼かれても、聖書が美喜の手に入るのを見て、祖母は級友が供給源であることを突き止め、美喜を「お茶の水」から退学させてしまいました。  
  美喜がバテレンになることを極度に嫌った祖母は、選ばれた当代一流の家庭教師による教育に切り替えました。国語・漢文・和歌・日本画・お習字・お茶・油絵・(英国婦人による)英語・和裁・ミシンかけ・お料理等です。このほか、父親は娘と一緒に漢詩を暗誦したり、母親も娘と一緒に緋毛氈の上を這い回って、絵絹に絵の具を塗ったり、英文の採点をしたりしました。また、伯母(加藤高明夫人)は「東洋史がなければ、西洋史は成り立たない、東洋史をしっかり学びなさい」と励ましてくれました。こうした家庭教育によって美喜は基本的な教養を豊かに身につけて行ったのです。  
  やがて、1922(大正11)年7月、クリスチャンの外交官・澤田廉三と結婚し、晴れて霊南坂のメソジスト教会で洗礼を受けてクリスチャンとなりました。そして、夫に伴われて世界各国を巡る間に三男一女の母となります。  
  1941(昭和16)年12月8日大東亜戦争が始まり、三人の息子は軍隊に入りました。1945(昭和20)年の終戦後二人は生還しましたが、三男・晃(あきら)だけは終戦の年の1月に、インドネシア北方海域で米潜水艦による雷撃を受けて戦死しました。

E・サンダース・ホーム設立
  神のから啓示を受けて10日間の祈りと黙想に身を委ねたとき、美喜は自分がすでに4人の子を育てて独立させ母としての任務が終ったこと、また、外交官の夫に仕えて妻としての役目を果たしたことを確認しました。そこで最後の難関である夫の賛同を得るために祈り、混血孤児養育施設を創る仕事に専心できるよう、「わたしを家庭から解放して下さい」と夫に願い出ました。「案ずるより産むがやすし」で、夫は快く賛同してくれました。父も大磯の別荘を使うことを賛同してくれました。しかし、占領軍による財閥解体が進み、別荘は、すでに財産税のために政府に物納したもので、米占領軍司令部の了解を得て、400万円で政府から買い戻すことになりました。あの終戦後の400万円は莫大な金額です。それから資金集めのために東奔西走する日々が始まりました。5000通以上の手紙をアメリカの教会や知人に宛てて発送しました。自分の持ち物はすべて金に換え、寄付金、借入金を合わせて、奇跡的に期限内に全額を政府に支払うことが出来ました。しかし、高額の利子の支払いが残りました。集まった返済金3000ドルを横領されることもありました。この返済は1960年までかかって終りました。しかし、もちろんホームの経営の資金はそれとは別に必要です。美喜は、正しい仕事はどんなに苦しいことがあっても、何処からか必ず助けが来るものだという確信を得ました。

  そうしているうちにも、数名の孤児が大磯に送りこまれてきました。子供の数は加速度的に増えてくるのです。子供と心中する一歩手前の母たちが、涙ながらに頼みにくる。列車の中に、駅の待合室に、公園に、道端に、大磯の町の中に紙くずのように置き去られた子供たちが20名を越えました。  
  この仕事を始めてから五ヶ月目に、イギリス大使館から呼び出しがありました。それは、ミス・エリザベス・サンダースという英国人女性が日本で40年働いて80歳の生涯を聖母病院で閉じたのが終戦の年の終わりでした。彼女は積み立てた170ドル(当時で61,700円)の貯金を遺産として、英国教会の日本の事業に贈ると遺言していたのです。そこで大使館はこの遺産を聖公会の会員である澤田美喜の事業に贈りたいという話でした。美喜はこの申し出を感謝して受け入れ、この最初の寄付金の送り主の名をもらって施設の名を「エリザベス・サンダース・ホーム」とつけました。
 
  美喜は初めから、この施設を個人や教会の所有としてではなく、公的施設とする意向でしたから、1947年12月に児童福祉法が制定されますと、翌年2月には乳児院を建て、6月に定員30名の乳児院が認可されました。さらに、 1949年4月には定員50名の養護施設が認可され、1950年9月には乳児宿舎(カナリヤ)を建て、12月には、チャペル・聖ステパノ礼拝堂を建てました。ステパノとは、戦死した三男晃のクリスチャンネームでした。
  そして、1951年3月に社会福祉事業法が公布され、1953年3月には、社会福祉法人エリザベスサンダースホーム設立が認可され澤田美喜が初代理事長に就任しました。更に、4月には学校法人聖ステパノ小学校が開校され、澤田美喜が初代校長に就任しました。これは園児の増加と、彼らの成長に伴う必要に迫られてのことです。
  美喜は地域社会の混血児に対する差別の厳しさに悩まされつづけましたから、地域の公立小学校ではなく、エリザベスサンダースホームの中に小学校・中学校を建てて、混血児たちを安心して教育することが出来る環境を作りたかったのです。

試練と迫害の連続
 美喜のヴィジョンや自己犠牲的愛の奉仕を理解できない人々の悪口や迫害は波のように打ち寄せてきました。
「財閥生活をつづけたいために、大磯の別荘を確保したのだ」
「進駐軍に家をとられるのをおそれてあんな看板をかけたのさ」
「財閥娘の一時の道楽ざあますわよ。1年もしたら放り出すでしょうよ」
「どうせ生きていても苦しむのだから、いっそ小さい時にそのままにして死なせた方が慈悲というものだ」  
  町を歩いていると、後ろから「パンパン家のマダム―――」と云う声を浴びせられる。暗い夜道では、どこからともなく石がとんでくる。列車内では大声で「大磯町の繁栄のじゃまをしているサンダースホームの山をダイナマイトで吹き飛ばし、駅からまっすぐに道をつける」などと暴言を吐く者もいました。黒い子を抱いて乗ると席を譲る人はなく、人々は通路をわざとふさいだり、子供に聞かせたくない悪口を無慈悲に投げつけるのでした。  
  ホームの子供41名が、百日咳に一時に感染したことがありました。
そのうち22名が肺炎を起こして、7名が昇天してしまいました。もともと
弱い子で、育つかどうかわからない子供たちでしたから、美喜は自分の血液を輸血し、保母と一緒に看病しました。しかし、七つの小さな棺が、次々と門の外に運び出されたとき、これが町の人々の目にうつらないわけがありません。次の朝、門の横の塀に、「ことぶき産院」と書いてありました。ことぶき産院とは、そのころ、120人あまりの乳児を殺して問題になった産院のことです。どうして町の人々は、丈夫に育っている子供の数は数えないで、死んだ子の棺の数だけを数えるのでしょう。
                                (以下次号につづく)

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