トップページ >> 日本のためのとりなし >> 2008年度 >> 8月号レポート
謙虚な殉国の将軍      
            山下奉文       ヨハネ 皆川尚一
                   
シンガポール攻略戦
 日本は1941(昭和16)年12月8日、米・英両国に対して宣戦布告を行い、南雲機動部隊による真珠湾攻撃をもってハワイの米海軍機動部隊に多大の損害を与えました。しかし、米国はこれを予期して空母群を退避させていたため、致命的打撃とはなりませんでした。  
  ハワイと同時に、日本は英国の東洋支配の要衝シンガポールの占領を目指し、12月8日にマレー半島北岸のコタバルに山下奉文(ともゆき)中将指揮下の第25軍を上陸させました。また、12月10日にはマレー半島東部クワンタン沖にて、日本海軍航空隊85機が英国東洋艦隊の主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの両艦を撃沈したので、英国東洋艦隊は事実上壊滅し、マレー半島とシンガポールの守備力は著しく弱められました。しかし、かって日本軍の航空総監を務めた山下将軍が切望した航空戦力をマレー・シンガポール作戦に活用する要望は大本営と南方作戦指導部の反対によって充分に実現することが出来ませんでした。  
  それにもかかわらず、山下将軍は、かってナチス・ドイツの機甲部隊による電撃作戦を視察して得た知識を生かして、歩兵・戦車・砲兵・工兵を連携させた機甲部隊、自転車部隊、舟艇部隊を駆使してマレー半島の強固な英豪軍防衛拠点を次々に制圧し、大小250本にも上る河川やジャングル、ゴム林が広がる1100キロの行程をわずか二ヶ月足らずで突破して、1942(昭和17)年1月31日には怒涛のごとくシンガポールの対岸ジョホールバルに到達しました。その勢力は約5万でした。
  対するシンガポール守備軍は英・豪・印連合軍と華僑抗日義勇軍で、その勢力は13万余でありました。何しろ50万の敵の攻撃にも耐えうると司令官パーシバル中将が豪語していた難攻不落を誇るシンガポール要塞だったのです。しかし、シンガポールを防衛するための要塞砲やトーチカ群はほとんど南部海岸地帯に海に向けて造られており、背後のマレー半島側は自然の要害を頼みとしたために防備が手薄でした。そこで、パーシバル将軍は背後の水道を渡って東部に日本軍が攻めてくることを予想して防衛線を強化しました。2月7日、山下将軍は東部に陽動作戦を行いつつ、8日には敵の意表を衝いて西部の水道を渡って湿地帯に日本軍の主力を集中させました。そして、2月15日シンガポール郊外のブキパンジャンとブキテマ高地を占領することが出来ました。  
  このころには、日本軍の食糧・弾薬はひどく不足していました。将兵たちの疲労も深刻な状態でありました。また、英軍も猛烈に戦い、有り余る武器・弾薬をふんだんに使って反撃したので、将兵たちは疲労の極に達していました。これが2月15日朝の戦線の実情であったのですが、パーシバルは日本軍の苦境を正確に把握していませんでした。強気の辻参謀でさえ、攻撃の一時中止を考えたほどてすが、山下将軍は「敵も苦しんどる!」と言い、断乎として攻撃を継続させました。そしてついに、12時ころ白旗を掲げた英軍参謀長ニュービギン少将らが日本軍陣地へ登って来て、戦闘は中止されたのです。  
  この攻略戦での戦死傷者は、日本軍5,091名。英軍約8,000名、捕虜13万8,708名でした。

「イエスかノウか」
 山下将軍は敵将パーシバル将軍との降伏交渉に、どんな気持で臨んだかをつぎのように記しています。

  「いよいよ英国軍の降伏となったのですが、実はその前の晩、恥ずかしい話だが、わたしはもう嬉しさでいっぱいで眠れなかったくらいだった。むかし評判であった乃木大将とステッセルの会見の場面を、夜中に何度も思い出したりした。そして、乃木将軍のように敵将をいたわり、慰めてやろうとひそかに考えていました。軍人として、一生の間にこの日をもった自分は、何という幸せ者だろうと、私は涙が出るほど嬉しかった」と。  

  ところが、山下中将の思惑は見事に外れてしまいました。敵将パーシバル中将は約束した時間に遅れてきたうえ、緊張のためか落ち着きがなく、キョロキョロしていて品格が感じられません。しかもイギリス側は日本側が示した12条の条件の一つ一つに対して、少しでも緩和しようと粘る。これは日本と英国との習慣の違いで、日本は交渉を行う場合、初めに「降伏」を決めてから細部に入るのですが、英国では細部を充分に検討したうえで、それが納得出来れば降伏文書にサインするという立場でした。  
  ところが、あの水師営の会見と違うのは、旅順要塞が完全に無力化された上での降伏交渉とは異なり、シンガポール要塞は双方が相対峙していて、交渉が決裂すればいつでも戦闘を再開できる情況下にありました。それゆえ、英国式に条件を審議しようとすれば、時間的な遅延は避けられず、日本側にとって不利な結果になることは明らかでした。その切羽づまった情況の中で、日本側の通訳も、英国側の通訳も辞書を引きひき下手くそで、一向に交渉が進みません。遂に山下が通訳に、「イエスかノウか、聞け!」と大声で怒鳴りつけました。すると交渉は一転して妥結したのです。そして、山下奉文がパーシバル中将に直接「イエスかノウか返答しろ」と詰め寄ったように報道機関が世界中にニュースを流しました。

大東亜戦争の呼称
  さかのぼって、1941(昭和15)年12月10日大本営は「今次の対米英戦争及び今後情勢の推移に伴い生起すべき戦争は、シナ事変を含めて『大東亜戦争』と呼称する」と発表しました。なぜならば、日本は欧米諸国の東アジアにおける植民地支配から、日本を含むアジア諸国を解放し、有色人種の大東亜共栄圏を確立するためにこの戦争を始めたからです。そして、この英国の東洋支配の根拠地であるシンガポールを攻略したことは、大航海時代以来の欧米のアジア支配を崩壊させる一撃でありました。白人たちは面目を失い、アジア人たちは「自分たちも白人に勝てるんだ」という希望と勇気とを与えられました。それから5年後に日本は大東亜戦争に敗北しましたが、アジア諸国はみな白人の植民地支配から脱却して独立を果たしました。これをもって見れば日本の戦争は「一粒の麦として」自らを犠牲とし、アジア諸民族を贖い取るという捨て身の勝利を勝ち得たものではないでしょうか。この勝利の象徴的人物が山下奉文であると思われます。

生い立ちと経歴
  山下奉文は1884(明治18)年11月8日、高知県香美(かみ)郡香北(かほく)町白川に生まれました。父山下佐吉は医師、母由宇(ゆう)の実家森田家は代々庄屋の家柄であったといわれます。11,2歳の頃は腕白なガキ大将で野山を駆け巡り、石合戦、川遊びなどしてのびのびとした健康な少年時代を過ごしました。その頃の男子はみな大臣か大将になることを夢見たものです。彼もまた小学校から海南中学校、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校と順調に出世の階段を登り、1916(大正5)年5月大尉に任官しました。 そして、翌年元陸軍少将永山元彦の長女久子と結婚しました。以後の略歴は、
1921年〜22年、軍事研究のためスイス、ドイツに駐在。
1930年歩兵第3連隊長。
1932年陸軍省軍事課長。
1934年少将に昇進。
1935年東条英機の後任として陸軍省軍事調査部長。
1936年2・26事件勃発。反乱軍鎮撫のために働く。山下奉文は統制派でも、皇道派でもありませんでしたが、歩兵第3連隊長時代の部下たちが皇道派反乱軍に加わっていたため、人情に厚い山下は彼らに降伏を勧めて反乱を鎮めました。そのため、山下は昭和天皇から皇道派の関係者とみなされて不興をこうむったようです。
1937年陸軍中将に昇進。
1940年航空総監。軍事調査のためドイツへ。
1941年第25軍司令官に任ぜられる。
1942年シンガポール攻略。第1方面軍司令官として満州に転任。
1943年大将に昇進。
1944年第14方面軍司令官としてフィリピンに転任。
1945(昭和20)年 米軍ルソン島に上陸。終戦の詔勅。バギオで降伏調印式。
1946年2月23日 マニラ郊外で戦犯として絞首刑に処される。

殉国の死
 山下奉文はシンガポール攻略後、満州に転任するに当たり、天皇陛下に勝利の報告をして、これまでのご不興を償いたいと考えていたようですが許されず、満州への直行を命じられました。  
  彼は軍歴からすれば、陸軍大臣、総理大臣になってもおかしくない人物でした。実際、昭和20年1月、近衛文麿は山下奉文を講和政権の首班として推薦しています。 天皇は彼をフィリピンの第14方面軍司令官に任ずるに当たり、彼を東京に呼んで、親任式を執り行いました。これでやっと心が晴れて、死地に赴く心備えが出来ました。  
  しかし、フィリピンで山下を待っていたのは不本意な戦争でした。日本軍は制海権も制空権も失っていました。そこで彼は航空機の攻撃を受けにくい、ルソン島北部の山間部やジャングルに強固な陣地を構築し、アメリカ軍に持久戦を強いて、兵力を消耗させ、台湾・沖縄方面へのマッカーサーの進撃を遅らせる戦法を採りたいと思いました。  
  しかし、シンガポールの南方総軍と大本営とは彼の構想を認めず、「レイテ島で米軍を迎えて決戦せよ」と命じて来ました。実に馬鹿げた戦法でした。狭隘なレイテ島では米軍の上陸を防ぐことも、強固な陣地を構築して持久戦に持ち込むことも出来ないからです。事実、山下が派遣した第1師団と第26師団とはレイテに着く前に米軍の攻撃を受けて沈められてしまいました。  
  山下のフィリピン方面軍はマニラを放棄して北部高地に持久戦のための陣地を構築し、ルソン島に上陸した米軍との間に死闘を続けました。山下は全将兵に対して、玉砕をきびしく禁じ、何があっても生き残るように指示しました。日本軍は米軍の激しい攻撃を支えきれず、奥地へ、奥地へと退いて戦いましたが、遂に、8月15日に天皇陛下による終戦の詔勅が発布され、9月2日山下将軍は幕僚と共に山から降りて来て米軍に降伏しました。  
  マニラに護送された山下奉文は10月9日に戦犯容疑者として起訴されました。それは広くフィリピン各地で日本兵が起こしたとされるいくつかの事件に関する容疑で、彼には何の覚えもないものでした。これが戦犯とされるならば、マッカーサーも戦犯とされねばなりません。しかし、山下の考えは帝国陸軍の司令官として、組織だって降伏し、日本軍を帰国させることが自分の責任であるから、そのために自分が無実の罪で死んでも本望であるという謙虚なものでした。山下の立派な人柄には米人弁護士リールも魅せられました。妻への辞世は、  
   満ちて欠け 晴れと曇りにかわれども   
   とわに冴え澄む大空の月
「皇室の弥栄(いやさか)を祈り奉る」でした。

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