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義勇仁愛の人      
            樋口季一郎        ヨハネ 皆川尚一
                   
  ここで、これまでと違った発想法で、過去の日本人の中から尊敬すべき有名、無名の男女を取り上げて、レポートしてみたいと思います。そこで第一にご紹介したいのが、「義勇仁愛の人 樋口季一郎(きいちろう)
です。

弱者の味方になれ
 1936(昭和12)年8月8日に陸軍少将樋口季一郎は、関東軍司令部付ハルピン特務機関長として満州国ハルピンに赴任しました。特務機関とはCIA=諜報機関ともいうべき秘密組織です。そのころの関東軍司令官は植田謙吉大将、総参謀長は東條英機中将でした。  
  当時の満州国は、独立とは名ばかりで日本の植民地と化していたので、樋口は着任早々機関員の若手将校たちを集めて命じました、
「わたしは満州国の内政干渉はしないつもりだが、ここは日本ではなくて満州国であるから、満州人の不平不満は良く聞いてやり、相談に乗ってやれ。その代わり悪徳日本人はびしびし摘発しろ」  
  すると血の気の多い青年将校たちは、かねて不良日本人の横暴ぶりに腹をすえかねていましたから、
「こんどの機関長、おもしろい人物だな」
「ああいう機関長のもとだと、大いにやりがいがあるよ」
と、かぜん張り切って不良日本人退治に乗り出し、大いに実績をあげました。  
  内にあっては弱い者の味方になった樋口は、北方ロシアからの見えない脅威に対しては細かい神経をつかいました。

ユダヤ人に祖国を与えよ
 12月に入ると、気温は毎日零下30度近く下がって毎日吹雪が続きます。しかし、室内はペチカの火が燃えて暖かかったのです。そんなとき、珍しい客が樋口を訪ねて来ました。ハルピンユダヤ人協会の会長、カウフマン博士でした。博士は内科医でハルピン総合病院の院長であり、アジア地域のユダヤ運動の実力者でもありました。博士は樋口にナチス・ドイツによる過酷なユダヤ人迫害の現状を説明し、協力を訴えました。
 「ゼネラル・樋口! おねがいです。ぜひお力をおかし下さい。わたしはナチス・ドイツのこのような非道を全世界に訴えたい。その手始めに、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開きたいのです。現在アジア地域に散在するユダヤ人の数は約8万人と推定されますが、それらの代表者をこのハルピンに集めて一大集会を開くことによって世論を喚起したいのです。ゼネラル、おねがいです。大会開催の許可をいただけませんでしょうか」
 「博士、おやりなさい。あなたがたの血の叫びを全世界に訴えなさい。いまこそ、ユダヤ人が一つになって立ち上がるべき時です。わたしも及ばずながら力になりましょう」 と樋口は快諾しました。  
  翌1937(昭和13)年1月15日、ハルピン商工クラブのホールに約2000人のユダヤ人が東京、上海、香港からも集まってきて、会場を埋め尽くしました。カウフマン博士を初め、各地域のユダヤ人代表が次々と演説し、最後に、博士に乞われるままに樋口少将が演壇に登ってしめくくりの演説をしました。
  「ユダヤの国の人びとよ! 諸君らは世界のいずれの国においても祖国の土を持つことが出来ない。まことにお気の毒である。ユダヤ人は、科学・芸術・産業の各分野において、他のいかなる民族よりも、すぐれた才能と天分をもっているのである。歴史がそれを証明しているにもかかわらず、20世紀の今日ユダヤ人に対する迫害、追放が行われていることは、人道主義の名において、また人類の一員として誠に悲しむべきことである。ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!ユダヤ人に祖国を与えよ!」  
  彼の演説が終ると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が壇上にかけ上がり、樋口の前にひざまづいて号泣しはじめました。

ユダヤ難民の救出劇
  それから2ヵ月後の3月8日、樋口の運命を決する重大事件が突発しました。
  「機関長、大変です。ソ連領オトポールの町にユダヤ難民2万人が吹雪の中で立ち往生して、食糧はすでに尽き、飢えと寒さのために凍死者が続出との情報です」と、情報担当将校が樋口の部屋にとびこんできて言いました。
  「では、もう少し詳しい情報を集めてくれ」
  「はっ、分かりました」と彼は出て行きました。  
  それから一時間ほどしてから、こんどはカウフマン博士が雪の中を外套の襟を立ててやってきました。
  「ゼネラル! お聞きでしょう------オトポールの一件を------私には同胞たちの絶望的な様子が、目に見えるようにわかるのです。2万人ものわれわれの仲間が-------。でも、私にはどうすることもできない。私はそういう無力な自分がかなしい。腹立たしいのです」  
  窓際に立って粉雪が舞う外のやみを見ていると、樋口の心に古い記憶が甦って来ました。それは10年ほど前のことです。樋口がまだ少佐でポーランド駐在武官としてワルシャワに派遣されていた時のことでした。ワルシャワには独、仏、英、米、伊、露など各国の武官がいて毎月親睦のダンス・パーティーが開かれました。その中で仲間外れにされているのはロシアのブシンフェスキー中佐夫妻でした。各国の武官は貴族・王族の名門の出でしたから、労働者上がりのロシアの中佐を毛嫌いしていたのです。樋口夫妻は交歓の合間を見ては、出来るだけブシンフェスキー夫妻に近づいて話しかけたり、自宅に招待して日本料理をご馳走したりしました。ブ中佐は目に涙を浮かべて樋口の手を握り、
  「日本には武士道精神というのがあると聞いていたが、あなたを見ているとそれが分かるような気がする。今夜のご好意は私も妻も忘れることはないでしょう。あなたのご好意に対し、私はお報いしなければならない。私のできるかぎり、なんでもしたい。遠慮なく言ってほしい」
  そこで樋口は、流暢なロシア語で答えました。
  「ではひとつだけお願いがある。わたしはあなたの国を旅行したい。
出来れば黒海から、クリミヤ半島あたりまで」
  「黒海?」
と、ブシンフェスキーは驚きの表情を表しました。無理もなかったのです。革命政権誕生後、まだ10年とたっていないソビエトは、厳重な鉄のカーテンを下ろして、外国人の入国をいっさい許可していなかったからです。しかし、彼はしばらく考えて、 「承知しました。あなたのご希望にそえるよう、努力してみます」と約束してくれました。
  それから3週間後、約束通りビザが下りました。旅行期間は一ヶ月となっていました。この視察旅行は樋口にとってソビエトを知る上に大きな収穫となりました。樋口はグルジアの首都チフリス郊外の部落で貧しいユダヤ人の老人と出会いました。その老人は涙を流して言いました、
  「私たちユダヤ人は、世界中で一番不幸な民族です。何処にいってもいじめられ、冷たい仕打ちをうけてきました。暴虐の前に刃向かうことは許されない。ただ、神に祈るしかないのだ。だれをも怨んだり、憎んだりしてはならないのだ。ただ、一生懸命神に祈るのだ。そうすれば、かならず、地上の君メシアが助けてくれる。神はメシアを送って助けて下さる。メシアは東方から来る。日本は東方の国だ。日本の天皇こそ、そのメシアなのだと思う。そしてあなたがた日本人もメシアだ。われわれユダヤ人が困窮している時に、いつか、どこかできっと助けてくれるにちがいない」
  深い皺の刻まれた老人の目じりから、涙がしたたり落ちていました。  
  その思い出が浮かんだとき、樋口はオトポールのユダヤ難民を救出することを決意しました。《「メシアは東方から来る」、よし、おれがやろう。軍を放逐されたっていい。正しいことをするのだ。あの老人のために、いまこそ、本当の勇気がいるのだ》と。
  「博士! 難民救出の件は引き受けました。博士は難民の受け入れ準備にかかって下さい」
  事態は差し迫っていました。彼は東條総参謀長の許可を仰がず、独断で大連の満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車差し回しの交渉を始めました。  
  それから2日後の3月12日の夕刻、第一陣の救援列車が到着しまし
た。凍死者十数人、病人と凍傷患者二十数名をのぞいた全員が、商工クラブや学校に収容され、炊き出しを受けました。救援列車がもう一日遅れたら、これだけの犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちが言いました。  
  オトポールの事件が解決して2週間後に、最悪の事態が樋口の上に降りかかってきました。それは、ドイツ政府からの強硬な抗議でした。そして新京の関東軍司令部から呼び出された樋口は、東條総参謀長に対して言いました。
  「日本はドイツの属国ではない、満州国も日本の属国ではないと、私は信じています。日本も満州もドイツの非人道的国策に屈すべきではないと思います。東條参謀長! あなたはどのようにお考えになりますか。ヒトラーのお先棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」
東條は言いました、
  「樋口君、よくわかった。あなたの話はもっともです。ちゃんと筋がとおっています。私からも中央に対し、この問題は不問に付すよう伝えておきましょう」
このようにして、東条はヒトラーからの抗議をはねつけたということです。

奇跡の北方作戦
  1937(昭和13)年8月20日、樋口季一郎は東京の陸軍参謀本部に栄転し、第二部長として手腕を振るいました。日ソ両軍が衝突したノモンハン事件の解決、シナの王精衛政権樹立の下工作の成功等の後に、陸軍中将に昇進した樋口は金沢第九師団長に任命され、再び満州に行き関東軍の一翼を担いました。そして、日本はついに終戦の年を迎え、1945(昭和20)年1月に大本営は本土決戦計画を決定しました。それにより、樋口中将は第五方面軍(北部軍管区)司令官を拝命し、3月18日に札幌月寒の司令部に着任しました。   
  樋口が北部軍司令官として着任したとき知ったのは、米国領アリューシャン列島のアッツ島守備隊1143名(陸軍)、キスカ島守備隊600名(海軍陸戦隊)と陣地設営の軍夫2300名とが孤立して飢餓に直面している事です。樋口中将はアッツ、キスカ両島守備隊の撤収を大本営に強く進言しました。参謀たちは樋口を「弱気の司令官」と呼んであざ笑いましたが、彼は知らん顔をしていました。結局この強硬な申し入れが大本営を動かし、アッツ島を見捨てる代わりに、キスカ島守備隊を撤収させることになりました。当時すでに米軍の反攻作戦はこの両島に迫っており、濃霧を利用した日本艦隊接近による救出作戦は奇跡的に成功しました。
  さて、次に千島列島にはソ連軍が攻撃し て来ました。それは8月15日の終戦の日から3日後のことでした。日本軍は敗戦の続きとして投降するのではなく、天皇の命によって武装解除するのですから、武器引渡しは両軍協議の上、紳士的に行われるはずでした。米、英軍とはこの原則が守られましたが、ソ連軍はこれを踏みにじり、8月18日払暁に占守(シュムシュ)島に対し奇襲攻撃をかけてきました。これに対し樋口司令官は「断乎、武器を執り、反撃に転ぜよ。ただし、戦闘終了の期限は予定通り午後4時とする」と命令しました。日本軍は敵を水際で撃滅する作戦をとり総兵力32000、火砲200門、戦車85輌で集中的に反撃した結果、午後4時までの十数時間で、日本軍の損害は、死傷600、砲6門、戦車20輌を破壊されただけなのに対し、ソ連軍の損害は、死傷4500、艦艇撃沈破14 舟艇破壊20、水没した火砲50数門と甚大でした。ソ連政府機関紙イズベスチヤは社説でこう述べています、「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりも、はるかに損害は甚大であった。8月19日は、ソ連人民にとって悲しみの日であり、喪の日である」。モスクワ市民は、この日、弔旗を掲げて、喪に服したといいます。
  この戦果は、占守(シュムシュ)島での勝利にとどまらず、「日本軍強し!」の印象がソ連軍の北海道北半分占領の野望を完全に打ち砕いたのであります。

武勇仁愛の人
 ソ連極東軍は、アメリカ軍の占領下にある札幌の樋口を、「戦争犯罪人」としてソ連軍に引渡すようマッカーサーに要求して来ました。  
  しかし、マッカーサー総司令部は、これを拒否し、逆に樋口擁護を通告したのです。 マッカーサー総司令部の背後には、アメリカ国防総省があり、その国防総省を動かしたのが、ニューヨークに総本部を置く「世界ユダヤ協会」です。アメリカの政財界を牛耳っているのは、ほとんどがユダヤ系アメリカ人ですから、ユダヤ協会の発言力が強大なのは、当然のことでしょう。このユダヤ協会の幹部の中に、オトポール事件のさい、樋口に助けられた難民の幾人かがいたのです。
  「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない。われわれはいまこそ、勇気をもって立ち上がるべきである」  
  世界各地に散らばっているユダヤ人に檄(げき)が飛び、燎原の火のごとく、樋口救出運動がはじまりました。こうしたユダヤ人の義理固さと誠実が国防総省をうごかしたのです。  
  1947年にイスラエル共和国が誕生しました。かって「ユダヤ人に祖国を与えよ!」と満州のハルピンで叫んだ樋口季一郎の叫びは、「われわれに祖国を与えよ!」という二千年にわたる世界のユダヤ人の叫びと一つになって、この年、イスラエルの地に実を結んだのです。そして、ユダヤ民族の幸福に力をかしてくれた人びとを永久に記念するために、エルサレムの丘の上に「ゴールデンブック」が建てられました。高さ3メートル、厚さ1メートル、本を広げて立てたかたちの黄金の碑です。そこに「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」と刻まれているそうです。また、樋口の部下であった安江仙江大佐の名も刻まれているそうです。そして、日本イスラエル協会から「名誉評議員」の称号が贈られました。樋口はそれを聞いたとき、「そんな話は、わたしにはどうでもよいことだ」と言いました。それから10日ほどのちに樋口季一郎は夫人に看取られつつ、安らかにこの世を去 りました。  
  「一将功成りて 万骨枯る」という漢詩があります。それは「一人の将軍の功績のかげには、数万の兵士が空しく白骨を戦場にさらしている」という意味です。樋口はそのことを思うと心が痛んで、「自分の名誉など、どうでもいいことだ」と思っていたらしいのです。孔子の言に「義を見てせざるは勇なきなり」とありますが、樋口は常に「義」に生きた人でした。義をつらぬく勇気の人でした。弱く、困窮する者を見たら捨てて置けない「仁愛」の人でした。孟子も「惻隠(そくいん)の心は仁の端(たん)なり」と言っています。「あ、気の毒だと思う心は仁の初めだ」というのです。主イエス様の御心も正にそうでした(マタイ9:36)。武士道精神は聖書の中に、イエス様の血潮と一つなって脈うっているのです。

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