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日本のためのとりなし
                                    ヨハネ 皆川尚一
序 言
  わたしは今年の年頭に、鹿児島市在住の「とりなし者」迫田(さこた)
フミさんから年賀状を頂きました。それには、昨年8月15日に「燃える
柴の会 カトリック・カリスマ宣教とりなし者 愛の泉」というとりなし者グループを7名で立ち上げたこと、そして鹿児島司教区の郡山司教様の認可も得られたことが記されていました。
  わたしはそれを見てびっくりしたのです。というのは、丁度その日の早朝寝覚めの床で見た夢と一致していたからです。その夢はこうでした。
「何かの大きな聖会があって、そこでわたしが司会者から聖職者として
様々の業績を上げた人であると紹介されました。その時わたしはたまりかねて叫び出したのです、『皆さん!わたしはただの燃える柴に過ぎません。いま司会者が紹介された業績はことごとくわたしを通して行われた主イエス・キリスト様の聖霊によるものです。わたしはただの燃える柴に過ぎません』 と。そこで目が覚めました。
  年頭の夢の中で叫んだわたしの魂と同じ魂で仕える「燃える柴のとりなし者」が鹿児島におられた!迫田さんの年賀状を見て感動したわたしは、早速この夢の話を記して、「燃える柴 愛の泉」が「日本のためのとりなし地域別祈祷会」に加わられるようにお勧めしました。すると司教様も
「エキュメニカル(教会一致)として良い事だ」とご賛同下さったので加入
されることになりました。
  新しいことが起こりましたから、この際改めて、日本のためのとりなしの精神と日本国のためにとりなす視点について、わたしの所見を述べてご参考に供したいと思います。

燃える柴(とりなしの精神)
  昨年の10月号で述べた通り、原則的には、キリスト者はみな聖なる
祭司であり、神と人との間に立つ「とりなし者」であります。この役割は、聖霊の火に燃やされて、おのれを無にして初めて担うことが出来るものです。 《出エジプト記3:1〜5》を見て下さい。
「モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、
その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。ときに主の使は、柴の中の炎のうちに彼に現われた。彼が見ると、柴は火に燃えているのに、その柴はなくならなかった。モーセは言った、『行ってこの大きな見ものを見、なぜ柴が燃えてしまわないかを知ろう』。主は彼がきて見定めようとするのを見、神は柴の中から彼を呼んで、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼は『ここにいます』と言った。神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが近づいているその場所は聖なる地だからである』」。
 
  ここで、柴が燃えているのに灰になって消滅しなかったのは、聖霊の火で燃やされていたからです。それは神の臨在のしるしでありました。
そして、モーセは燃える柴となるように神様から召し出されたのです。
「足からくつを脱ぐ」という行為は、相手に自分の権利を譲渡することを意味しますから、神様はモーセにおのれ自身を神に全托するよう命じたのです。モーセは40年前、おのれの知恵と力量でイスラエルの民をエジプトから救い出そうとして失敗しました。そして、無力な人、自信のない人になりました。今や、モーセはおのれの力や無力をかえりみず、ただ神の全知全能におのれを全托して燃える柴となるように召し出されました。
これがとりなしの精神です。  
  それゆえ、わたしたちは新たに聖霊の火で燃やされて献身し、昼も夜も「とりなし者」として神様に仕える祈りの人となりたいと思います。

日本のためにとりなす視点
 次に、日本のためにとりなす幾つかの視点を取り上げます。

(1) 日本のキリスト教界について
  わたしたちはキリスト者でありますから、自分が所属する教派の教会のために祈るのはごく自然であり、当然のことであります。しかし、それだけで満足してしまわないで、広く日本のキリスト教界全体のことを視野に入れて祈る必要があります。明治時代から現代に至るまで、既成教会に失望して、どこの教会にも属さないし、無教会主義でもないキリスト者が非常に増えています。
  また、どこかにもっと良い教会がないかと、探し求めて教会から教会へと転々として流れているキリスト者も少なくありません。そういう人々は統計の数には入りません。
  統計上、日本のクリスチャン人口は日本の総人口の1%に満たない状態が、戦後60年間継続しており、総体的にカトリック、正教会、プロテスタント諸教会は老齢化が進み、聖職への献身者が少なくなっています。ペンテコステ、カリスマ派は比較的若者が多く集まっているように見えますが、教会から教会へと流動したり、また外国人がかなりの数を占める等の理由から、日本のクリスチャン人口は増加していないようです。従って、統計的に見れば、2030年には、日本の教会は消滅するであろうと予測する牧師も出てきました。大変な悲観論です。
  しかし、わたしはそうは思いません。日本の教会には希望があると信じています。 その理由は、主イエス・キリスト様が日本国の主であられることです。日本が立つも倒れるも主にかかっています。そして、主は日本国を守り,世界の一致と平和のために尊く用いると預言しておられるからです。では、どのように祈ったら良いか、
1)老齢者を馬鹿にしてはなりません。熟年パワーが教会を救い、日本
  を救うのです。熟年者が天を見上げて聖霊の激しい降臨を祈り求め
  ることによって、嬰児、幼児、少年、少女、青年、壮年が皆甦るでしょ
  う。
  「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』と言うか。
  イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えは神に顧みられない』と
  言うか。
  あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。
  主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、
  弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。
  弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
  年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる。
  しかし主を待ち望むものは新たなる力を得、
  わしのように翼を張って昇ることが出来る。
  走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」
  (イザヤ40:27〜31)。

2) 個人の救いだけでなく、家族、親族の救いのために祈る。死後の霊
  魂の救いもふくめて、家族ごとに帰天者の名簿を備えて記念会を大
  切に守ること。
3) 排他的、対決的宣教姿勢を転換する。日本の伝統的な霊性を偶像
  礼拝として否定することをやめ、天地創造の神を崇める日本神話の
  精神を評価し直す必要があります。イスラエルの日本大使エリ・コー
  ヘン氏は「八百万の神とは多神教ではなく、聖霊をさしている」と解釈
  していましたが、傾聴するに足る言葉ではないか。あるキリスト者はと
  りなしの祈りの中で、天照大神を悪魔として追い出す祈りをしていま
  すが、見当違いも甚だしいといわねばならない。勿論、悪霊として追
  い出すべきものは、聖霊によって識別して対処すべきです。
4) キリスト教の本質の再認識が必要です。イエスの視点から既成神学
  を再評価すること。キリストの神秘体としての教会、及びミサ、或いは
  聖餐を中心とする礼拝を尊ぶこと。排他的にではなく、エキュメニカル
  な一致を信ずること。

(2) 日本の社会的状況について
  1) 戦後日本の体制
  戦後日本の体制は、いわゆる東京裁判史観に基いてGHQ(連合軍司令部)により、一挙に改革されました。大日本帝国憲法の廃止、新日本国憲法の制定。天皇主権を廃止し、主権在民とする。家族制度を廃止、小作人制度を廃止、土地を平等に分配する。身分差別を撤廃、男女平等の社会制度を制定する。軍国主義を廃止、非武装・平和主義をとる。これらは全てマッカーサー司令官の命令により、GHQ内のニューデイール派と呼ばれる共産主義的ユダヤ人によって実施されたものです。当時のアメリカ大統領ルーズベルト氏は共産主義思想の信奉者でしたから、その影響とも言われます。
  これにより、また、GHQはラジオ放送を通じて4年の占領期間中、朝に夕に「日本は侵略国である」という罪責感を日本人全体に刷り込むための番組を放送しました。 これにより、左翼思想家は大いに勢いづき、日本人の指導層が、戦前の右翼的思想から左翼思想に転換し、社会主義、共産主義が政界、教育界を支配するようになり、自虐史観がかなり日本社会に定着しました。
  しかし、戦後60年経って、その流れが変り始め、日本国の伝統を尊重し、捨てられた良いものを回復しようとする動きが次第に強まって来ました。一般的に言って、倒すのは早いけれども、建て直すには時間がかかります。60年間刷り込まれた思想・観念から脱却するのには、多くの抵抗があります。
  日本を支配下においたアメリカは、更にその支配を巧妙に増大する政策を取り、アメリカとその背後にいる国際的軍産複合体勢力は、アメリカに迎合する政治家たちを操って日本の富を収奪し、日本を分断して支配する体制を作らせました。いわゆる、小泉構造改革です。これは戦後の荒廃から立ち上がり、高度経済成長を経て、優れた技術と製品に裏打ちされて経済大国への道を着実に歩んできた日本を快く思わない欧米社会からの猛烈なバッシングによるものです。具体的には、1989年の日米構造協議に端を発するアメリカからの年次改革要望書に基きます。それは日本をアメリカの都合のいいように改革する内政干渉の指令書です。その指令によって、日本を分断する道州制の導入、金融の自由化、不良債権の処理、人材派遣の自由化、大規模小売店舗法の廃止、郵政民営化、建築基準法の改正、電気通信市場への外資参入の自由化等が実現されて来ました。その結果、非正社員やパートの急増と格差の拡大が生じてきました。
  ところが、日本を支配する計画を持っているのはアメリカだけでなく、
シナ(中国)、ロシア、それに追随する北朝鮮・韓国です。戦前日本にいた在日朝鮮人・韓国人だけでなく、戦後日本に渡来した韓国・朝鮮人、
シナ(中国)人は、統一教会や創価学会を介して日本の政治家たちにどんどん取り入って秘書になったり、財界人になったり、国の中枢部に入り込んで、その勢いは驚異的であります。心ある政治家はこうした流れを規制すべきであるのに、左翼勢力に迎合して自らの利権を守ろうとする政治家たちが、これを推進しています。福田総理も、公明党、民主党、
社民党、共産党もそうした仲間たちです。共産党は頬被りしていますが、国際共産主義(コミンテルン)の目標は2017年に世界政府を樹立することであって、今の新左翼運動はゴルバチョフ主導の下、その方向に世界を導きつつあると言われます。  
  しかも、米英の背後にも、中韓ロの背後にも、同じ国際的な闇の権力が働いていて、国々を互に戦わせたり、和合させたりして利益を貪っているのが現状です。  
  こうした勢力のはざまにあって、日本国の古き善き伝統を回復し、かつ守って行こうとする日本人は少なからずいると、わたしは判断しています。わたしも実はそのひとりであります。わたしは右翼でも、民族派でもなく、国際派でもありません。そのようなレッテルを貼って人を色分けすることは、自分の無知を自己宣伝するようなものです。わたしはただ、日本という尊い国に生を受けたクリスチャンとして、日本の優れた伝統を大切に守って行きたいと思っているだけです。戦後教えられた日本国の歴史は偽りが多く、古事記、日本書紀以前の歴史を学べば学ぶほど、日本と世界を結ぶ古代史の新しい視点が生まれてきます。縄文時代と呼ばれる1万5千年の優れた文化・文明は、天皇を頭として築かれた世界的に評価さるべきものであったらしいのです。これからの若者たちが真剣に研究してほしい課題であります。

 2) キリスト者の責任
  こうした日本の現状の中で、キリスト者が持つ社会的責任とは何でしょうか?
  戦後キリスト者の社会的責任は大いに論議されてきました。そしてその多くは、日本社会の左翼的改革に寄与することでした。日本のプロテスタント教会の牧師たちは大多数が左翼的で、日本キリスト教協議会
(NCC)は、世界キリスト教協議会(WCC)の傘下に入っています。そして日本カトリック正義と平和協議会も、朝鮮基督教徒連盟(KCF)も、中国三自愛国教会(CCC)も、世界キリスト教協議会(WCC)とつながっています。それは、宗教的な仮面を被った政治運動になりました。  
  日本のキリスト者には政治思想を持ち、政治活動をする自由があります。しかし、キリスト教会の使命と責任とは、この世の政治に参画することではなく、全世界にキリストの福音を宣教し、人々の霊魂を神に立ち帰らせて救うことにあります。聖職者の使命は自分の政治的立場を高く掲げて、人々を一定の主義・主張に導くことではありません。人々はイデオロギーによって救われるのではなく、福音を聞いて救い主イエス・キリストに帰依することによって救われるのです。わたしたちのとりなしの祈りの中心はそこにあります。  
  それと同時に、わたしたちは、万物が主イエス・キリストの支配下にあることを信ずるがゆえに、この世の宗教・政治・経済・教育・社会の諸分野のあらゆる問題が、主の御心に適って導かれるように、とりなし祈る責任があります。そうした祈りを通して、悪の力を打ち破り、神の勝利をもたらすために聖霊のご啓導を祈ることであります。 何が本当に神様の御心であるか、それを知るためには心を澄ませ、黙想、観想により、聖書の御言葉によって、聖霊の啓示を頂くほかありません。

結 語
  わたしたちの究極の希望はこの世にではなく、再臨のキリストによってもたらされる永遠の神の支配、神の国にあります。この世に生まれる国はどんなに理想を求めても、人間の罪によって内部から崩壊するでしよう。「我らの国籍は天にあり、我らはそこから下って来られる救い主イエス・キリストを待つ」(ピリピ3:20)。これがわたしたちの究極の希望であります。恐らく大多数の聖職者・信徒はこの希望において一致しているでしょう。ただ、そこに至 る方法論において、色々な違いが生まれるのでしょう。  
  実はわたしも戦後平和運動の実践者として「相模キリスト者平和の会」を作り、又、「神奈川県キリスト者社会活動協議会」を作り、日米安保条約反対、ベトナム戦争反対等の講演会、デモ行進、募金活動、ビラ配
り、祈祷会等を推進して、戦ってきました。社会正義のための闘争こそ
キリスト者の信仰の良き証しであると信じて突進したのです。しかし、心は常に批判的、闘争的であり、社会悪に対する怒りで燃えていました。わたしの仲間たちは皆そうでした。そして、心は平和ではなく、神の愛に渇いていました。闘争を行っている教会の集まりには人々が寄り付きませんでした。  
  ところが、42年前聖霊が降ったときに、わたしの在り方、生き方が変ったのです。神の聖霊との深い一致が全てのイデオロギーに優る霊魂の救いであり、生命であることを経験したのです。わたしの心の渇きは神様の愛によって癒され、天に昇るような歓喜で満たされました。教会に集う人々は加速度的にどんどん増加し、神奈川、東京、千葉まで家庭集会が15箇所も増えて、どの家庭集会でも人々が救われました。知的な議論ではだれも救われません。飢え渇いた心で一心に聖霊を求めると牧師も変り、教会も変ります。まだ経験しておられない方は、思い切って一切を放棄して、キリストの中に飛び込んで見ては如何でしょうか。そこから新しい飛躍と甦生が見られるに違いありません。              以 上

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