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クール・デウス・ホモ
(神は何故に人間となりたまいしか)
              Cur Deus Homo
      ヨハネ 皆川尚一
         
  すべての人をてらすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。
そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。
  そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも
先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだ
ひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである(ヨハネ1:9〜18)。


1. 聖アンセルムスの贖罪論
 先ず解説的に申し上げたいのは、表題の「クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまいしか)」は、アンセルムスがカンタベリーの大司教時代に国王と叙任権問題で争って追放されている間に書き、次期国王から呼び戻されて復職してのち、1098年に完成したものであるということです。それは教会史上の数多の贖罪論中、偉大な傑作と言われています。ちなみに表題はラテン語です。  
  日本では、1948(昭和23)年に岩波文庫から長澤信壽訳の初版が刊行されましたが、今は絶版となっています。    

  ところで、アンセルムスの所説を要約すれば次のような内容です。「人間が神に対して最も善いことは神への服従であって、最もわるいことは不従順の罪である。人間の服従によって神の栄誉は崇められるが、人間の罪によって神の栄誉は傷けられる。罪とは不従順によって、神の栄誉を傷け、これを神から奪いとることである。ここにおいて罪は神への負債である。ところで神は、罪を見のがさない。公義の神は刑罰をもって、罪に臨まざるを得ない。罪人が神に祝福されるためには、罪の負債、即ち神から奪いとった神の栄誉が神に返され、罪の処理が果たされなければならぬ。これがアンセルムスの言うところの「サティスファクティオ(satisfactio)即ち「賠償(満足)」である。即ち神の栄誉は罪の賠償によって回復され、神が満足することによって罪の赦しが与えられるのである。ところが人間は罪の賠償をしなければならないが、その力がない。それゆえ人間に対する神の態度は「賠償か、刑罰か」というこの二者の中の一つしかない。ところで、もし神が人間に刑罰を加えるとすれば、人間は滅びてしまわなければならぬ。それは神の統治にとって、ふさわしいことではない。神は刑罰の道を捨てて賠償の道を選ぶが、人間には前述したように罪の賠償の力がない。罪の賠償をなし得る者があるとすれば、それは神のみである。しかし、神には賠償の責任がなく、罪の賠償をしなければならない者は神でなくして人間である。ここにおいて罪の賠償のためには、神の御子が受肉して人とならなければならない。即ち真に神にして人、真に人にして神という者が現れなければ、人間の罪は賠償されないのである。アンセルムスの贖罪論が、「神は何ゆえ人となったか」と名づけられた意味はここにある。受肉のイエス・キリストは生涯と死までの全き服従、即ち自分を神に献げることによって罪の賠償を果し、神の栄誉を回復した。キリストの十字架の死は、神に対する尊い贈り物である。神はこの贈り物に対して、何らかの報酬をキリストに与えようとするが、しかしキリストは子なる神であって、報酬を受くべき何ものもないので、罪の赦しの報酬がキリストに代わって人間に与えられたのである」。

2.アンセルムスの問題点
  以上が聖アンセルムスの贖罪論の要約であります。後世の宗教改革者等が唱えた代償的刑罰説とは異なり、神の栄誉を回復するために御子イエス・キリストが人となって、言わば人類を代表して父なる神に全き服従を献げたという点は、大層説得力があると思います。

(1)しかし、そのキリストの功績が神に背いた罪人に転嫁されるという
思想は、転嫁を認めないで個人の責任を問われる神の裁きの基本的
原則に反しています。 (エゼキエル18:1〜20参照)     
 例えば、イエス様が譬話で語られた放蕩息子は父の栄誉を回復するために出来る唯一つのことをしました。それは本心に立ち返って罪を悔い改め、父の許に帰って来たということです。そして自分の罪を告白し、「もう息子の資格はないから雇い人同様にして下さい」と願いました。これが父の栄誉を回復する方法でした。それに対する父の態度は自発的に息子のそばに駆け寄って彼を抱きかかえ、無条件で罪を赦し、実子として受け入れてくれて大喜びしたということです。

(2)今一つの問題点は、罪人に対する神の愛の評価にあります。もし神が罪人に対して刑罰を与えるとすれば、人間は滅びるほかなくなる。そこで賠償の道を択んだ結果が御子による受肉と贖いということになったと考えました。ここで論じられているのは贖罪についての法律的な手続きの問題ばかりであって、「罪人」に対する神の愛そのもの、言いかえれば「失われたわが子の価値」ではないと言わなければなりません。これは宗教改革者たちの代償的刑罰説についても言えることだと思います。どうしたら償えるかという法律的な手続きではなく、神が求めているのは失われたわが子を回復したいという熱烈な愛情であり、そのために御子の受肉という非常手段をとるほかなかったのだと考えられるのです。

3.クール・デウス・ホモ
 さて、「何故神は人間となられたのか?」
という命題は、クリスマスに当たって極めて重大な問いかけとなるでしょ
う。神様は最愛の御子を犠牲にしてまでも、「神に背いた人間を救わずにはおかない」と決意されたのです。それは人間が無価値な物ではなく、御子の御いのちに代えても救いたいほどの価値ある神の子であり、神の目に尊い存在であるからです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
(イザヤ43:4)
と主は言われます。                アーメン

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