トップページ >> トピック >> この世に勝つ

                            2007/5/3 教会霊修会メッセージ
この世に勝つ

                                 皆川尚一牧師
             聖書 《ヨハネ16:31〜33》
  イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

序  言
 ここで主イエス様が、「わたしはすでに世に勝っている」と言われたのはどういう意味でしょうか。今、この世では人々が「勝ち組」と「負け組」に分けられて格差社会が作られつつあります。勝ち組とは、この世で勝った人々を意味し、負け組とはこの世で負けた人々を意味します。勝った人は大金持ちになり、負けた人は貧乏人になる。そして世の中は少数の
大金持ちが、大多数の貧乏人を独裁的に支配するようになるであろうと言われていますから、多くの若者たちが「勝ち組」に入ろうと頑張ってお
り、負け組に入った人はがっかりして生きる目的と意欲を持てなくなっているようです。しかし、この勝負に勝ったからといって高ぶる必要はなく、この勝負に負けたからといって卑屈になる必要もありません。この勝負はわたしたちの運命を決定するものではないからです。シェイクスピアの「リア王」、それの日本版である黒澤 明の「乱」を見れば、威張りかえっている者たちが没落して行く有様がよく分かります。

  しかし、聖書が言うのは、「この世に勝つ」ことの大切さです。神様から見ると、この世で勝った人々の中に「この世に負けた」人々がおり、この世で負けた人々の中に、「この世に勝った」人々がいるからです。この勝負こそわたしたち一人びとりの運命を決定するもっとも重要な戦いです。
  では、「この世に勝つ」とはどういうことなのか。そして、どうしたら
「この世に勝てる」のか。これが今日解明されるべき課題であります。

1. 世とは何か
 そもそも、聖書でいう「世」とは何でしょうか。

(1)善美な世界の創造
  
  旧約聖書では、「世」という意味のヘブライ語はありません。その代わりに「天と地」、「人の住む地」、「万物」、「万象(ばんしょう)」という語で
表現されています。  
  さて、神による天地創造は、「光あれ」、または「光あり」という宣言に
よって始まりました。この光は神様の本質であって、新約聖書によれば御父の中から出て来たものです。その光は御子を通して発出し、天界
(人間の霊と天使の霊)を産み出し、万物を産み出す素材となりました。水、土、岩、石、空気、植物、動物、人間等、あらゆるものが神の光から成り立っています。神の光とは神性を意味します。ですから物質も光
(光子、電子)から成り立っていますし、神性を分与されています。また、人間はもとより、すべての被造物に霊と神性とが付与されて輝いています。

  特に、人間は「神のかたち(ツェレム)」に造られ、「地を従わせよ」、
「すべての生き物を治めよ」と神様から命じられましたから、神性を分与されて「神の子」と呼ばれます。つまり、天使も人間も神様の見える姿として万物を治める(管理し、育成し、調和のある世界を作る)使命と責任とを与えられているのです。その証拠に、創世記第2章では、神様が最初の人アダムの伴侶としてふさわしいものをアダムに選ばせようとして、
色々な生き物を連れてこられましたが、相応しいものがいませんでした。そして、アダムの分身であるエバを造ったことにより二人は一体となって夫婦の秩序が生まれました。ここから、結婚、家庭、そして人類社会へと発展して行きます。エデンでは未だ夫婦だけでしたが、神様と人との交わり、人と生き物との交わり、そして川や畑や果物による自然界の豊かな調和と、平和の秩序が保たれていました。そこで神様は、造られた世のすべてをご覧になって「善し(トーブ)」 と言われたのです。これが、最初の「世」の特徴であります。

(2)罪と死と混乱の侵入
  しかし、この調和ある世界は天使長サタン(龍・蛇)の天界における
反乱と人間に対する誘惑によって破壊されました。アダムとエバは神様に背いて、しかも、悔い改めなかったので、エデンの楽園から追放され、呪われた大地を住処として生活し始めました。出産、家庭、弟殺しが起こり、兄カインは追放されて別居し、世の権力者・独裁者・征服者としての道を歩みました。そこから、アダム、セツ、ノアまでの信仰の家系と、カインから大洪水で滅ぼされるまでの不信仰の家系が発展し、ノアの時代には「時に世(エレツ=地)は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」(創世記6:11)という混乱状態になりました。

  ところが大洪水で悪人たちが全滅したはずなのに、生き残った信仰の家系の中からハムや、ヤペテの子孫が不信仰の家系を生み出し、権力闘争による世界歴史をかたち作って行きます。セムの家系も例外ではありませんでした。信仰の父アブラハム、イサク、ヤコブ、その12人の息子から12部族が発展してイスラエル民族の歴史を作って行きますが、たびたび神様に背いて他国の捕囚となりました。そのような苦難の中から、
預言者たちが神から遣わされて救世主(メシア)到来の預言をもたらしました。旧約聖書の預言者たちは人間たちの背後に働く霊界の諸勢力、天使たちと、サタン・悪霊たちの戦いがこの世に大きな影響を与えていることを示し、この世の国々の興亡もそれに左右されていることを告げました。そうした世界歴史の興亡に終止符をもたらし、神の王国を建てるメシアの到来は人々に大きな希望を与えました。つまり、あらゆるサタンの
悪巧みや、人間の不信仰、不道徳による混乱があるにもかかわらず、
神の世界救済計画は着々と進められており、最後の勝利は神様の御手にあるという確信です。

(3)救世主イエスの来臨と再臨の希望
  待望のメシアは、ナザレのイエスという名で天より降臨されました。
永遠の神の御子(独り子なる神)は、処女マリアの体内にて受肉し、人類の一員となって下さいました。そして、全人類の罪を背負って十字架にかかり、罪と死とサタンの力に勝利して、復活されました。これにより、主イエス様を信じて結びつく人は不滅の命と勝利の力を受けてこの世を支配する罪と死とサタンに勝つことができるようになりました。
  イエス様は最後の晩餐の席でのお祈りの中で祈られました、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためにわたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17:15〜19)。

2.この世にあるキリスト者

(1)自分を聖別すること  
  従って、キリスト者がこの世に勝つためには、真理によって自分を
聖別することが必要です。それは人間の思いによってではなく、神様の御言を聞いて従うことによってです。その実例としてペテロのことを考えて見ましょう。
《マタイ16:13〜17:8》を見て下さい。ペテロは「あなたがたはわたしをだれと言うか」とイエス様に尋ねられて、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えました。そしてイエス様から大いに褒められました。しかし、
そのあとでイエス様が、自分は必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえるべきことを弟子たちに語られました。するとペテロはイエス様を脇へ引き寄せて、「主よ、そんなことがあるはずはございません」と言いました。するとイエス様は振り向いてペテロに言われました「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱り付けました。それから六日後にイエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山にのぼられ、彼らの目の前で純白の衣をまとった輝くばかりの御姿に変わられました。すると、モーセとエリヤが天から現れてイエス様にエルサレムでの死について語りました。
ところがペテロはまだ自分の思いに囚われていて、「ここに三つの小屋を建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」と言いました。すると輝く雲が彼らを蔽い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と。弟子たちは非常に恐れて地にひれ伏していましたが、イエス様から「起きなさい。恐れることはない」と言われて起き上がって見ると、
イエス様のほか何も見えませんでした。  

  この「イエス様のほか何も見えない」ということが大切です。わたしたちも高い山にのぼって太陽よりも輝くイエス様の御顔だけを見つめる必要があります。それが自分を聖別するということです。聖別とは、「神様の
ものとする」ということです。その究極の姿が、十字架の死をも神様の
御旨として受け入れて、身も心も献げ尽くすイエス様の聖別です。イエス様に従うためならば、苦難も、死もいとわないというのがわたしたちの
聖別です。それが愛の究極の姿でしょう。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と主は言われました。
  また、使徒パウロは、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19〜20)と告白しています。この言葉に共鳴して、「そうだ、私もキリストと共に十字架につけられたのだ。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが私のうちに生きているのだ、
と真剣に告白すれば、必ずそうなる」と信じる人や、そう教える人がおりますが、そうなるとは限りません。むしろ、自分を殺すとか、自分が死ぬとか考えないで、キリストの愛の中に自分を投げこみ、溶かしこむことを願うのが、最も有効だと思います。   

  両腕のないスエーデンの福音歌手レーナ・マリア・ヨハンソンさんが、来日したとき、東京のテレビ朝日のスタジオで自作の歌を英語で歌い
ました。
     わたしは高い山にのぼって叫びます
     あなたはわたしが前よりも もっと深く
     イエス様を愛してることを知らないのですか
     前よりもっと深くイエス様を愛してる
     アイ ラブ ジーザス
     アイ ラブ ジーザス
     ウオー オー オー オー オー オー オー
     彼はわたしを愛してる
     わたしは前よりもっとイエス様を愛してる
     アイ ラブ ジーザス ジーザス ジーザス アァー
と。わたしは心が熱くなり、涙がこぼれました。彼女にとって初めての
日本デビューのとき歌ったのが、イエス様への愛の讃歌だったのです!
このイエス様とわたしだけの神秘な一体感はほかの何ものにも代えられない喜びであり、力であります。

(2)真の礼拝者となること
 自分を聖別し、献身することを、具体的に表現するのが主の日の礼拝です。これは、人間から発しているのではなく、神様から発しているのです。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を
礼拝するときが来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:23〜24)
とイエス様は言われました。神様が捜し求めているのは霊と真をもって礼拝する人です。
ですから、わたしたちは神様から召されて礼拝に仕えるのです。従って
礼拝は神様に拝謁し献身する厳粛な儀式の場であり、神様の贖いと罪の赦しを感謝し、お祝いする祭りの場でもあります。罪の赦しを受け、
宣言された御言を説き明かす説教を通して神の御心を悟り、聖餐に与って主イエス・キリスト様と一体化されることを頂点とした神秘な儀式が
礼拝であります。これは無意味な形式ではなく、天における礼拝の雛形
(ひながた)である地上の礼拝です。
  この礼拝はキリストの十字架の血潮によって贖われた地上の聖徒たちをもって構成される霊的共同体であるキリスト教会においてこの世の真中で公(おおやけ)に献げられるものです。この世の人々が見ていようといまいと関係なく、天地万物の創造主なる神様を崇めて、天上の聖徒たち天使たちと一緒にささげられています。ですから、相模大野開拓伝道の初めには、礼拝の場として借りた倉庫の中で、会衆は未だひとりもなく、わたしひとりで礼拝し説教しました。
  そのとき外の道を通りかかった在日韓国人の豊原さんが、「あれー、独りで説教してるよー!」と、びっくりして、家から自分の子供たちを連れて来て、最初の会衆となりました。そのお子さんのひとりが、今は厚木純福音教会の牧師となって伝道しています。

(3)福音宣教の使命
  次に、キリスト者の使命は、聖霊の力を受けて、地の果てまで福音を宣べ伝え、キリストの証人となることです。
  イエス・キリストの命令に従って、この二千年間キリスト教会は世界の果てまで福音を宣べ伝え、人類の約三分の一はキリスト教になったといわれますが、イエスをキリスト(メシア)と信じない人々は非常に多く、
ユダヤ人も日本人もクリスチャンは国民の中で少数者です。欧米のキリスト教国といわれる国々においても生きた信仰を持つキリスト者は減少しつつあるということですが、これは、すでにイエス様の予告しておられる
ことですから、怪しむ必要はありません。
  ただ、わたしたちが注意すべきことは、この日本において神道や仏教を十把一からげに偶像礼拝と決め付けて、それを捨てないと地獄に落ちるというような宣教の仕方をしないように気をつけることです。実際、古神道では社殿も神の像もなく、ある時と場とを設けて神霊を招き祭りをするのです。ただ神霊の依り代としての磐や鏡が置かれるに過ぎません。
又、古事記の成立には初代キリスト教の影響によると思われる三一の神の御名が掲げられています。日本人の先祖たちは天地創造の神様を日本流の名称で呼んで崇めたのだと思われます。
  わたしが洗礼を受けてキリスト者となった昭和16年ころには、自分は救われている義人であるが、未信者は救われていない罪人たちである、という観念が強かったのを覚えています。彼らはこの世の人々だと優越感をもって見下したものです。自分も罪人であったこと、主の憐れみによって救われたことを思えば、優越感などは持てないはずです。この優越感が宣教の妨げになるでしょう。
  また、伝道のトラクトを配っても、受け取らない人には「では、あなたは地獄ですね」という捨て台詞を残してサヨナラする。こうした態度も優越感の表れであって、福音宣教の妨げになるでしょう。

3.キリスト教倫理の緊急課題
  ここでわたしは、キリスト公会の信仰告白の一部を引用したいと
思います。
  「主は、御言の宣教と聖礼典とにより、霊と真とをもて主に仕へ、主の
 日の礼拝を献ぐる者を召し集め、聖別し、訓練し、上よりの力を着せ、
 自らの証し人として世に遣わし給ふ。主は天にても、地にても、一切の
 権を執り給ひ、王の王、主の主、諸霊の全き支配者として万物を統べ
 治め給ふ。  
   されば、我らは主の立て給ひしこの世の権威を尊び、主の御旨に
 適ふかぎり、その命令と秩序とに従ひて良き生活を営むを可とす。  
   されど、我らの永遠の国籍は天にあり〜(以下略)」
 
  この信仰告白の中で、今、目を留めて頂きたいのは、主イエス・キリスト様が天においても地においても一切の権威、権力をもって万物を統治しておいでになるということです。神の統治の及ばないところはないのです。この世のすべての事柄は、神の支配下にあります。これが「神の国」(バシレイア テウー)の実体です。神の国=神の支配であります。だから神の国(神の支配)はキリストと共に既に来ているのです。この世がどんなに神に逆らっていても、わたしたちはこの世の生活の中で、神様に
素直に従って生きると覚悟するのです。

(1)日本国の中の権威
  その具体的な課題を取り上げれば、先ず「神の立て給ひしこの世の
権威を尊ぶ
」ということです。これはイエス様がユダヤ教の宗教組織・
制度の中で立てられた権威(大祭司)を尊んだことや、それだけでなく
ローマ帝国の皇帝や総督の権威も天地創造の神様から受けたものだとしておられることでも明らかです(ヨハネ19:11)。パウロ(ローマ13:1〜17)や、ペテロ(Tペテロ2:13〜17)も、キリスト教会を迫害するネロ皇帝や
長官たちに従うこと、税金を納めることを勧めています。「従う」とは、
信仰を捨てることではなく、甘んじて刑罰を受けるということです。
  日本国の場合もこれに準じて考えることが出来るでしょう。日本は
1945年の敗戦により、神の権威によって立てられた天皇を否定して、
国民の総意によって立てられた象徴としました。「民主主義」と言う錦の御旗を絶対の正義のごとく振りかざして、現行の憲法がつくられて60年経ちました。わたしたちはこの国の歴史と伝統を尊重して、神様の御旨が何処にあるかを見定めたいと思います。今立てられている権威を尊ぶだけでなく、変えられて欲しい問題点を明らかに認識したいと思います。日本国は間もなく滅びるのだから、どうなってもかまわないというような
態度は、国を否定するだけでなく、家庭を否定し、社会を否定し、あらゆる現行の事物や制度を否定するニヒリズム(虚無主義)となります。わたしたちキリスト者の姿勢は、来たるべき神の国を信ずればこそ、今の
日本国と世界の上にキリストのご支配が現われるように祈り、かつ努力することではないでしょうか。

(2)戦争と軍備
 日本が軍備を持てば、再び軍国主義国家を建て、侵略戦争を行うようになるという恐れから憲法第九条が定められたといわれます。戦後60年経って国際情勢を観るとき憲法が謳った「平和を愛する諸国民の公正と
信義」などというものは何処にもない、これはただの空文に過ぎないことが分かります。そのような空想に日本国民の安全と生存を委ねることはできません。
  神様は「殺すなかれ」といわれ、キリスト様も「すべて剣を執るものは、剣で滅びる」と言われました。わたしたちはキリスト者の個人倫理としては、出来る限りそれを守りたいと願いますが、自分や家族を守るための正当防衛として、限界情況(ギリギリの切羽詰まった情況)においては人を殺すこともあり得るでしょう。日本人は未だ日常生活で武器を携帯することは稀(まれ)ですが、アメリカでは日常の問題のようです。イエス様が弟子たちに「上着を売って剣を買え」(ルカ22:36)と命じられたのは、危険の真っ只中に置かれた弟子たちのための実際的な配慮だったのかも知れません。その時ペテロが「主よ、ここに剣が二振りあります」と言いますと、主は「充分だ」と答えられたのです。そのあとペテロが剣で大祭司の僕の耳を切り落としたとき、主は「剣を鞘に納めなさい。すべて剣を執るものは剣で滅びる」といわれたのです。そのために、主が「剣を買え」と
命じられたのは霊的な剣のことであって、物質的な剣のことではなかったのだろうという解釈が生まれました。

  戦後の日本国はいわゆる「平和憲法」によって、狼の群れの中に置かれた羊のように無防備な状態に置かれそうになりましたが、朝鮮戦争後間もなくアメリカの支配下にあって日米安全保障条約が結ばれ、アメリカ軍の一翼を担うべく自衛隊が作られました。このままでは日本国の意思に関わりなく日本は独立国ではなく、アメリカの保護国としての弱い地位に置かれて周辺諸国と対等に交わることが出来ないというので、自衛隊を格上げして日本国軍とすることにより独立を全うしたいというのが、
憲法改正論者の共通の主張でしょう。
  独立国であるためには軍備をもつことは必要悪であると考えられま
す。国を守るための軍務に服する軍人は人殺しの専門家として貶(おと
し)められず、国を守るための崇高な任務に携わる人として尊ばれる
必要があります。しかし、9.11以後の対テロ全面戦争という国際情勢の中で日本国は賢明な選択をして無益な戦争を回避する努力をすべき
でしょう。

(3)家 庭
  家庭は社会を構成する最も基本的な社会であります。神様は「人が
独りでいるのは良くない」と言われて、伴侶としてのエバをアダムのわき腹の骨から作られました。「二人のものが一体となる」ことによって夫婦が生まれ、子供が生まれて家庭という秩序が立てられました。夫と妻、
親と子、兄弟、姉妹の関係は聖書の中で神様の愛によって守られ、愛と義のオアシスとして育てられるときに測り知れない祝福の基となります。
  しかし、またここにも、人間の始祖アダムとエバの祝福された家庭の中に蛇(サタン)が忍び込んで、禁断の木の実を食べて神に背くこと、
エデンからの追放、妬みによる弟殺し等が起こりました。神に対する
不従順がすべての始まりでした。そこから、飽くなき欲望、妬み、殺意、人殺しと罪は発展するのです。そしてこんがらかった糸はどこから解けるのか、わからなくなります。性格や趣味や考え方の違い、信仰や思想の違い、互いに要求することがかみ合わないし応えられないということが
あります。イエス様は言われました、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり、預言者である」(マタイ7:12)と。これは、孔子の言う「何事でも自分にしてほしくないことを人にしてはならない」という教えよりも積極的であり、英語ではゴールデンルールと呼ばれていますが、わたしは不完全だと思います。なぜなら自分にしてほしいことが、必ずしも相手の望むことではなく、人によっては「ありがた迷惑」になることがあるからです。
  従って本当の愛というのは、「相手の望むことをしてあげること」ではないでしょうか。相手の気持ちを無視して、自分の好みを押し付けることが不和の原因になるからです。ほんの一寸した行き違いが大きな裂け目へと発展します。
  しかし、必ず解ける糸口があると思います。それは自分のエゴを捨てることです。意地を捨て、無際限な欲望を捨てることです。これは神様の助けがあって初めて達成される難事業だと言えるでしょう。 わたしたち
は、先ず自分の中にあるこの世に勝つことを当面の最も大きな課題として取り組み、神様の絶大なる愛の中に自分を投身するならば、きっと何かの解決の糸口が見えてくると思います。

(4)性の問題の混沌
  現代社会における性の問題は混沌としています。わたしが駆け出しの牧師として下関の教会に赴任したときは、絶対に離婚は認められないと考えていました。すると、市内の聖公会の中村司祭が、実はこういうことがあるんですよと語ってくれました。彼が司式して結婚式を挙げた教会員の夫婦は理想のカップルのように見えました。ところがある日奥さんが
訪ねてきて、どうしても離婚したいと言います。その理由は毎晩夫婦の
営みをする時になると、夫がカミソリを出してきて妻を傷つけるというのです。「皆川さん、あなたはこれでも離婚してはいけないと言えますか?  僕はやむを得ず離婚に賛成しましたよ」と言われるのでした。夫婦の問題は原則論では解決出来ないんだということを教えられました。
  創世記第19章に出ているソドムの町は淫乱の町でした。アブラハムの甥ロトが町の支配者の座についたのは、「ソドムとゴモラ」という映画によれば、ソドムを襲撃してきたアマレク人の軍勢を撃退してやったからだということになっていますが、本当かどうかはわかりません。とにかく義人ロトが市長になっても町は良くなりませんでした。主が二人の天使を遣わしてソドムの罪の実態を調べさせたとき、ロトの家に宿ったハンサムな天使目がけて沢山のならず者がロトの家に押し寄せてきました。それは
「男色(ホモ)」を求める狂った民衆でした。これに対してロトが言ったことも狂っています。「兄弟たちよ、悪いことはしないで下さい。わたしには
未だ男を知らない娘が二人います。これを差し出しますから、あなた方の好きなようにして下さい。ただわたしの屋根の下に入った客人にだけは何もしないで下さい」。天使たちが群衆の目をくらましたのでだれもロトの家に入っては来れませんでした。天使たちがロトとロトの妻と、二人の娘たちの手をとってソドムから逃げ去ったあと、天から降り注ぐ火と地下からのガスと硫黄の爆発によってソドム、ゴモラの町々は滅ぼされました。かろうじて助かったロトの一家も安全ではありませんでした。ロトの妻は滅びの町に残して来た財産か何かを慕って後ろを振り返ったために塩の柱になったし、山の洞穴に住んだロトの娘たちは、父親と交わることによって子孫を残しました。その子孫とはモアブ人とアンモン人でしたが、神様は彼らをも保護しておられます。現代の日本を含めて世界全体がソドム化して来ていると言っても過言ではないでしょう。ホモ(男性同性愛)、レズ(女性同性愛)、マゾヒズム(被虐趣味)、サディズム(嗜虐趣味)などが、セックス・プレイとしてテレビ・パソコンはもとより、広く社会に当然のごとく行われる時代になって来ました。こういう時代の潮流の中でわたしたちは知らず知らずにその影響を受け、流されてしまう危険があります。

               《ローマ1:24〜32》
 「ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互いにはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである。
 それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然のものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。
 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを
正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、またざん言する者、そしる者、神を憎む者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
無知、不誠実、無情、無慈悲な者になっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている」。


(5)キリスト教と文化
  最後に、キリスト教と文化の問題に触れて置きたいと思います。戦後、新教出版社から「基督教文化」という題名の雑誌が出版されました。その巻頭言に「キリスト教と文化とは互いに相反する概念であるが、あえてこの題名を選んだのは、戦後の日本に新しいキリスト教文化がおこされることを期待するからである」という趣旨の説明がありました。
  わたしは未だ神学生になったばかりで、キリスト教と文化とが相反する概念だという意味が良くわかりませんでしたから、「なぜだろうか?」という疑問を持ったことを憶えています。
 そもそも「文化」とは何か。広辞苑によると、
 (1) 文徳で民を教化すること。
 (2) 世の中が開けて生活が便利になること。文明開化
 (3)(culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。
    衣食住を初め技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治などの生活形
    式の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多
    いが、西洋では、人間の精神生活とかかわるものを文化と呼び、
    技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。
と言う説明がなされます。

  聖書を見るかぎりでは、エデンの園には農耕文化があったのではないかと推察されますが、はっきりしません。
むしろ、神に背いたカインとその子孫から多彩な文化が花開いたようです。都市を建てたり、琴や笛という楽器を作り、音楽を演奏したり、青銅や鉄の刃物を鍛える技術を磨いたりしました。それは農業に役立てるだけでなく、戦争のため武器としたのです(創世記4:17〜24)。だから。文化は悪いと説く学者がいます。むしろ、科学技術は戦争のための武器を作る事によって発達しました。  
  しかし、文化が発達したのはカインの末裔にだけではなく、セツの末裔にも見られます。ノアの建造した箱舟は技術の粋を集めたものでした。箱舟の材質、構造、長さ、高さ、幅のバランスはどんな荒波にも耐える
安定したものであり、内部を照らす灯かりはヘブライ語で「ヅォハル」(光輝)ですが、今の人類には未知の光源だった、(多分12000年前に太平洋に沈んだムー文明のエネルギー源であった「オリハルコン」ではなかったかと)言われます。また、箱舟から出たノアが農業を営んで、ぶどう酒を作ったというのも、ノアの文化です。  
  明治時代にわが国に渡来したプロテスタント・キリスト教はピューリタンの影響を受けて禁欲的であったと言われます。ある宣教師はワインが好きでしたから、ワインを沢山船に積み込んで来て、下田港に立ち寄ったとき、町の通りで泥酔して倒れている若者を見て、自分の生き方を変えました。ワインをみな海中に捨てて、神奈川に上陸したのです。ですから
禁酒・禁煙は大東亜戦争終結までの日本のキリスト教会の特色だったのです。酒・煙草だけでなく、映画・芝居・演劇・小説もタブーでした。なぜなら、それらは美しいもの、善なるものだけでなく、ありのままの人間生活の中にある盗み、強盗、人殺し、姦淫、恋愛、好色、詐欺、その他のあらゆる悪を表現することになるからです。 戦後のキリスト教会はタブーから解放された自由さをもつようになりましたが、その結果善悪の判断がつきにくくなっているとも言えるでしょう。  
  人間の造るものにはすばらしいものがある、と同時にそれが悪用されれば自滅を招くことになるということを、だれも皆いやというほど経験してきました。
  わたしたちは伝統的な文化を尊重すると同時に、それを聖化する使命をも与えられているのではないでしょうか。

結  語
  わたしはこの講演をする準備として、カール・バルトの「教会教義学
解説シリーズ『キリスト教倫理』4巻」、カトリック教会の「第2バチカン
公会議・公文書全集『現代世界憲章』」、八代崇著「現代に生きるキリスト者」、A.M.ハンター著「われらの救い主イエス」、「日本国憲法」、「キリスト公会の信仰と政治」その他色々な文献を学びました。その結果この講演のテキストとして丁度良いものが見当たりませんでしたので、わたしなりに理解し、把握した現代のキリスト者、キリスト教会の直面する問題点を発表して見ました。

  終りに、われらは天地万物の創造主である神様を信じます。又、その見える姿としての贖い主イエス・キリストを信じます。このお方は聖なる霊であって一切の被造物を包み、満たし、生かしておいでになります。人間も動物も植物も、無生物もその他一切の霊的存在者たちも、みなこの三一の神から出て、この三一の神に帰することを信じます。神様には混乱し堕落したこの世を救うご計画があり、その実行者、完成者としてイエス・キリストが働いておいでになります。従って、救い主イエス・キリストを信ずる者は神の造られた世界とその中の一切のものを愛し、尊び、神の
栄光が現れるように互いに助け合うように努めたいと思います。この世に働くサタン・悪霊・悪人の力には限界があり、キリストはすでにそれらの勢力に打ち勝っておられるので、われらもそれらに打ち勝って神と共に喜び、讃美し、主の再臨を待ち望みつつ生きて行きたいと思います。
                                      アーメン

トップページ >> トピック >> この世に勝つ