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                                        2015/09/13の礼拝説教
  足ることを知る

   第一テモテ6:3〜10               皆川尚一牧師
   もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間にはてしないいがみ合いが起こるのである。しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世に来た。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑とわなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別なさまざの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした(第一テモテ6:3〜10)。

信心と金の利得

 先ず、《3節〜5節》を見て下さい。
 「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間にはてしないいがみ合いが起こるのである」(3節〜5節)
信心というのは、神様を畏れる敬虔な心です。言い換えれば、キリスト信仰の道です。それが金の利得のために利用されることは古代ギリシャ世界では当たり前のようでした。いや、現代世界においても、エバンジェリスト(福音宣教師)ともてはやされる人たちは何千人も聴衆が集まるステージの上で、既成キリスト教会の悪口を言って、自分の語る福音だけが正しいとアッピールして、献金を集めました。そういうエバンジェリストを日本に招く時には、先ず、100万円以上の招待費を送る必要がありました。それについて相手の宣教団とこちらの委員会の間で、高すぎるだの、安すぎるだの議論が盛んになって、取引が行われたのです。招いた後で、癒しの奇跡がほとんど現れなかった場合、損害賠償を請求することは出来ませんでした。わたしは聖霊カリスマ刷新運動の中で人気のある海外のエバンジェリストたちがハリウッドのプール付きの豪邸に住み、高級車を何台も持ち、贅沢に暮らしていることを聞きました。それが信心を利得と心得る者の実例の一つです。
 普通のキリスト教会であっても、会衆が多く、献金も沢山集まり、教会堂建築等をする場合には、信心を利得と心得る会計役員が出て来ることが多いようです。会堂建築特別会計が何千万円、何億円となった場合、会計役員がひそかに教会の金で株を買って増やそうとして失敗し、穴埋め出来なくて教会から追放された実例も少なくありません。
 
足ることを知る
 次に《第6節〜10節》を見て下さい。
 「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世に来た。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑とわなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別なさまざの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」(6節〜10節)
とありますね。この「足ることを知る」の「足ること」とは、ギリシャ語で「アルトアルケイア」と言い、ストア哲学では、「完全な自己充足」を意味していました。つまり、「霊的な自己満足」です。東洋の哲学者の老子も、「足るを知る者は富む」と言っています。ここで大切なのはただ「足ることを知る」ではなく、「信心があって足ることを知る」(第6節)ことだと思います。わたしたちは天にいます神様の許から裸でこの世に来ました。ですから、また裸で天国に帰って行くのです。パウロは「ただ着る物と食べる物があれば、それで十分だとすべきである」と言っていま今あるもので満足し、それ以上を求めない、足ることを知る人は幸せです。

富におる道も知る

 しかし、キリスト教は貧乏を奨励しているわけではありません。パウロだって、《ピリピ4:11〜13》でこう言っています、
 「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており,富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:11〜13)。
 つまり、わたしたちも自分を愛し、恵んで下さる天のお父様やイエス・キリスト様が常に共にいて、自分を強くして下さるので、富むことにも、貧しいことにも感謝して生きることができるのです。必要な働きのためにお金が要ることは神様だってご存知です。だからビジョンが実現するために大胆に必要な富を求めても良いのです。神様はわたしたちの必要をご存知です。教会堂の床があちこちブカブカであるとか、牧師館の屋根が何時雨漏りするか分からないほど劣化しているとか、改善すべき事柄が沢山あるのですから、「必要な費用を下さい」とお祈りするのは貪欲ではありません。神様を見つめて、必要は必ず満たされると信じて祈りましょう。
イエス様は、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11;24)と約束されました。わたとたちは貧に処する道と、富に処する道を神と共に歩む自由な人になれるよう祈ろうではありませんか。アーメン
次回予告 15.09.20 信仰の戦い(第一テモテ6:11〜16)


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