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                                        2015/08/9の礼拝説教
  自分と人とを救え

   第一テモテ4:11〜16               皆川尚一牧師
   これらの事を命じ、また教えなさい。あなたは年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる(第一テモテ4:11〜16)。

若いと軽んじられる

 使徒パウロはエペソ教会の長老テモテに対して、「年が若いために人に軽んじられるな」と戒めています。ギリシャ語の「若い(ネオテース)」という語は幼児期も含めてかなり幅の広い年齢層を表す言葉ですが、軍隊用語では20歳から40歳までの年齢を含む言葉のようです。日本の軍隊では40歳は老兵の部に入って、あまり使い物にならないと見なされていましたが、古代キリスト教会では、年が経つにつれて聖職者に任職される適齢期は50歳以上でなければならないとなって行きます。日本でも無教会主義者の間では、「伝道者になるのは40歳過ぎてからの方か良い」と言われていました。
 しかし、パウロやテモテの時代では未だそういう風習や規則は出来ていませんでした。この手紙を書いた頃のパウロは63歳、テモテは30歳位だと思われます。パウロはテモテに
 「むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」(12節)
と勧めました。これはなかなか大変なことです。

いかにして成長するか
 わたしの経験で言いますと、わたしが牧師として下関彦島教会に赴任したのは28歳でした。市内の色々な教派の教会を廻って着任の挨拶をすると、「いゃあ、若くて良いねえ、うらやましい」などと先輩の年長の先生たちから歓迎されました。しかし、聖公会の中村司祭からは、牧会上の苦労話を聞かされて、簡単に「離婚は罪だから許されない」などと言ってはいけないと教えられました。年が若いということは、未熟だということです。離婚の悩みを持ち込んだ教会員の女性から、「先生は自分が結婚していないから何もわからないのよ」とあからさまに軽蔑されました。「年が若いために軽んじられるな」と言われても仕方がないのです。自分の未熟さを受けいれて、だんだんに成長するほかありません。聖書の読み方が足りなかったり、解釈の仕方が聖霊による導きではなく、人間の定めた規則や仕来りや欲や感情に捕われると、間違った結論が出てきます。パウロの勧めでは、
 「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい」(13〜14節)
 ここに言われているのは礼拝の中でのことではなく、テモテが旧約聖書を個人的に良く読むことです。朗読し、黙読し、暗誦し、聖霊の導きを祈る時に、今まで分からなかった意味が聖霊によって解き明かされて来ます。それを人に語って共に喜び、慰め、励ますことができます。勧めたり、教えたりすることで,自分も教えられ、励まされ、霊的、信仰的に成長するのです。特に、長老の按手を受けた時に与えられた「カリスマ(恵みの賜物)」を大切に働かせるならば、すべての事に進歩が現れるでしょう。

自分と人とを救え

 つまり、人を救うためには、先ず自分が救われていなくてはなりません。人を進歩させるためには、自分が進歩していなくてはなりません。人を霊的、信仰的に成長させるためには、先ず、自分が霊的、信仰的に成長していなくてはなりません。
 自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる」(16節)
 わたしは15歳で洗礼を受ける前の日に牧師先生をお訪ねして、「洗礼を受けるのをやめます」とお断りしました。「なぜですか」と尋ねられて、答えました。「わたしの父が救われずに死んで地獄にいっているとすれば、子のわたしが天国に行くわけには行かない。わたしも父と一緒に地獄に行きます」と答えたのです。それは幼稚な、消極的な考えでした。それに対して牧師先生は《ペテロの第一の手紙3:18〜4:6》を読んでから、こう言われました。「もし、お父さんが地獄に行っているとしたら、子であるあなたが先ずキリストを信じて救われて、お父さんも救われるように祈ったらどうですか。そうすれば親子共に救われるのではありませなか」と。わたしは納得して、翌日の復活祭礼拝で洗礼を受け、父が救われるようにイエス様にお祈りして、確信を与えられました。わたしにとって幸福であったのは、死後の霊魂にも救いのチャンスかあるという信仰を持った牧師先生に出会ったことです。これがもし福音派の牧師であったら、「この世で救われなかったら死後には救いの望みはない」と切り捨てられていたことでしょう。このほかにも、原罪とか、生まれ変わりとか、聖霊充満の恵みとか、古代キリスト教会から現代までの信仰の歴史を通して受け継がれてきた真理を大切にして、お祈りに励み、霊的・信仰的に成長し、自分と人とを救うために働こうではありませんか。フーメン

次回予告 15.08.16  高齢者を大切に(第一テモテ5:1〜2)


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