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                                        2015/07/05の礼拝説教
  良い監督の条件

   第一テモテ3:1〜7               皆川尚一牧師
   「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることを心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。(第一テモテ3:1〜7)。

監督の職とは何か

 初代キリスト教会の管理組織は、その礼典から発展しました。クリスチャンたちは使徒たちに導かれて、土曜日の安息日の夜に行われる聖餐式と日曜日の早朝に行われる主イエス・キリストのご復活を祝う礼拝に集いましたが、やがて日曜日の礼拝にのみ聖餐式・洗礼式を行い、旧約聖書や使徒の手紙、イエスの御言葉等の朗読や説教を行うようになりました。そして、使徒たちが外国伝道に出て行く前に、各地域の教会を管理・指導する監督・長老たちを任命しました。礼典は神の召命を受けた使徒・預言者・監督・長老たちによって執り行われ、会衆一同はキリストの十字架の贖いと復活に与かり、聖霊を受けることを求めて集まったのです。
 初代キリスト教会はユダヤ教のシナゴーグと同じように長老によって指導されました。「長老」の職務は羊の群を監督する羊飼いと同じなので、「監督」と呼ばれるようになり、同じ人が長老と呼ばれたり、監督と呼ばれたりしました。テモテ第一の手紙の中でも、第4章、第5章に「長老」のことが書いてありますが、長老も監督も同じ牧会職なのです。つまり、現代キリスト教会の「牧師」と同じだと思えばよいでしょう。

良い監督の条件
 さて初めに、
  「『もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである』とは正しい言葉である」
とありますが、監督の職ほど難しいものはありません。それは自分で望んでなれるものではなく、神の召命があって初めてなれるものです。それは次に書いてある良い監督の条件を読めば分かります。
 (1)非難のない人
   他人から非難されることのない人なんているでしょうか。欠点はだれ   にもありますから。多分これは常識的に見て、欠点はあってもある    程度受け入れられる人という意味でしょう。
 (2)ひとりの妻の夫であること
   これは先ず独身ではないことを意味するでしょう。わたしは28歳の   時神学校を卒業して、独身で牧師となりましたが、家庭を持つ人の   苦労が十分に分かりませんでした。離婚したいと訴える信徒から、   「先生は結婚していないから、わたしたちの悩みがわからないんで    すよ」と皮肉られたことがありました。
   また、独身では誘惑が多いです。
   次に、一夫多妻でないことを意味していたと思われます。ユダヤ人   もギリシャ人も一夫多妻が当たり前でした。
 (3)自制心を持ち、慎み深く、礼儀正しいこと
 (4)旅人をもてなすこと。良く教えることができること。
 (5)酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わないこと
 (6)金に淡泊であること、つまり欲張らないこと。
 (7)自分の家を良く治め、子供たちを従順な者に育てること。
 (8)信者になって間もない者でないこと。高慢になると悪魔につけ    こまれるからです。
 (9)教会外の人にも好意をもたれている人であること。教会内部     だけでは独善的になって高慢になるからです。
 こうした条件をことごとく備えた人は滅多にいません。いや、備えていたとしても教会を治めるといことは、容易なことではありません。それは、
たといキリストを信じてクリスチャンになっても、皆それぞれに個人としても、家庭としても、人生の荒波や嵐に悩んで、教会生活が思うに任せなくなるからです。子供たちだって、中学、高校と成長する間に親に反発し、教会に反発し、自分の自由な生き方を求めるものです。わたしはそれで良いのだと思います。自分で悩んで、また再び神様に立ち帰ることによって霊的に成長するからです。牧師も、親も、天の父なる神様と救い主イエス・キリスト様の憐みによって聖霊を満たされ、昼も夜も熱く祈り、それによって成長して行きます。大切なことは、高慢になって、人のプライバシーを踏みにじることのないようにしなければなりません。そこから悪魔が付け込んで来ます。

幸福な人
最後に《詩篇第1篇》を開いて下さい。
 「悪しき者のはかりごとに歩まず、
 罪びとの道に立たず、
 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
 このような人は主のおきてをよろこび、
 昼も夜もそのおきてを思う。
 このような人は流れのほとりに植えられた木の
 時が来ると実を結び、
 その葉もしぼまないように、
 そのなすところは皆栄える。
 悪しき者はそうでない。
 風の吹き去るもみがらのようだ。
 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
 主は正しい者の道を知られる。
 しかし、悪しき者の道は滅びる」(詩篇1:1〜6)
                           アーメン  
どうか、わたしたちも幸せな神の皇子、皇女として深く主に根を下し、喜ばしく生きて行こうではありませんか。アーメン

次回予告 15.07.12  良い執事の条件(第一テモテ3:8〜13)


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