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                                            2012/2/12の礼拝説教
神は忘れない

出エジプト2:23〜25
Uペテロ3:8〜9
ルカ18:1〜8                   皆川尚一牧師
多くの日を経て
  多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは、神に届いた。神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。(出エジプト2:23〜25)。

ここに、「多くの日を経て」とありますが、ちょっとやそっとの期間ではなく、40年です。モーセがエジプトを脱出してミデヤンに逃げてきてから40年も経ってしまったのです。モーセはミデヤンで羊飼をして平穏な生活を楽しんで来ましたが、ついに、その平穏が破られる日が来ました。エジプトの王が死んだからです。普通なら、「えっ、イスラエル人を奴隷として酷使してきた王が死んだのか。ああ、よかった。これで奴隷の境遇から解放される」と喜ぶところですが、その後継者たる皇太子は、王位に即いてもイスラエル人を解放しようとはしませんでした。それで、イスラエルの人々は重労働の苦しみに耐えかねて叫びました、「神様、助けて下さい。いつまで苦しまなければならないのですか。早く、早く、お救い下さい」と。でも、いくら叫んでも人間のうめきや叫びだけでは救いにはなりません。

神の時が満ちる  
  しかし、何かが変ったのです。それはイスラエルを解放する神の時が満ちたということです。それは人間が予測したり、判断したりすることの困難な問題です。  
  《創世記15:13〜16》で神様はアブラハムに預言されました、  
  「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅人となって、その人々に仕え、その人々は彼らを400年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後彼らは多くの財産を携えて出て来るでしよう。あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。4代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪が満ちないからです」。  
  この預言を聞いてわかるのは、神様には未来の青写真があるということです。子孫がエジプトに旅することも、そこで400年間奴隷にされて苦しむことも、そこから脱出することも分かっています。ただその脱出の時期は、「アモリ人の悪が満ちた時」なのです。この「アモリ人」というのは、「カナン人」のことです。カナン(現在のパレスチナ)には35の小さい王国があって、悪魔・悪霊を拝む宗教が盛んでした。その悪が満ちた時に、神の裁きが行われます。それがイスラエル人によるカナン攻撃と占領なのです。従って、神の裁きの執行者であるイスラエル人のエジプト脱出はアモリ人の悪が満ちるまで待たされることになります。

一日は千年のごとし  
  それは、この罪の世が滅ぼされて、神の国が出現する時は未だか、という問題とも関係があります。わたしたちはこの世の罪のために悩み苦しんで、「主よ御国をきたらせたまえ」と叫ぶのに、どうして直ぐに聞かれないのか。そのわけは《Uペテロ3:8〜9》に書いてあります。  
  「愛する者たちよ、この一事をわすれてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対しながく忍耐しておられるのである」。  
  従って、その計算によれば、イエス様が昇天されてからまだ2日しか経っていないことになります。また、時間の感覚というのは、待つ身にとっては長いですが、過ぎ去ってしまえば短いのが常です。

神は忘れない  
  そこで大切なことは、神様はあなたのことを忘れていないということです。「今」という潮時が来ると、神様は動き出されます。出エジプト記にもどりましょう。ここに五つの動詞が使われています。

(1)「叫びは神に届いた」。今までだって届いていたけれども、手ごたえ
   が感じられるようになったのです。
(2)「神はかれらのうめきを聞いた」。神様の耳が急に敏感になったの
   ではなく、応答が始まったのです。
(3)「神は先祖たちとの契約を覚えた」。神様は先祖との約束を忘れて
    いたのではなく、覚えている事柄に注意を向けられたのです。
(4)「神はイスラエルを顧みた」。愛情をこめて近づいたというのです。
(5)「神は彼らをしろしめされた」。これは「知った」の丁寧語です。   

  例えば、幕末の頃、高山彦九郎という武士が、たびたび京都御所を訪れて、荒れ果てた御所に住む光格天皇に食糧や日用品を差上げまし
た。するとある日、天皇が縁先までお出ましになって、「そなたが高山彦九郎か、そなたの親切を身にしみて有り難く思うぞ」と話しかけられました。すると、彦九郎は感激して歌を作りました。

       われをわれと しろしめすかや すめらぎの
       玉のみこえの かかるうれしさ   

  この「しろしめす」とは、「愛情こめて知っていて下さる」という意味です。ですからこの歌は、「このわたしを高山彦九郎と愛情こめて知っていて下さるのか、天皇陛下の尊い御声を聞けるとは、なんと嬉しいことであろうか」という意味でしょう。  
  今の天皇陛下もそうです。わたしの兄正治が日本肢体不自由児協会の専務理事であったとき、天皇陛下に肢体不自由児を育成する運動について御進講申し上げたことがあります。その後兄が脳梗塞で倒れて車椅子で園遊会に参列したとき、陛下が兄をご覧になって、「皆川さん、皆川さんじゃありませんか、どうされたのですか」と親しくお声を掛けてくださり、大いに感激させられたことがありました。   

  これと同じく、神様はイスラエル人を愛情こめて知っていて下さり、親しく近づいて下さるのです。  
  皆さん、神様はわたしたちの名を呼んで、ひとりびとりをしろしめされます。わたしも、「尚一、あなたを愛しているよ」と神様から言われたことがたびたびあります。「わたしを尚一と知って下さるのか」とわたしも感激したものです。神様がわたしのことも忘れないでいて下さるんだと心に刻み付け、喜んで生きて行こうではありませんか。           アーメン

次回予告 12.2.19 燃える柴を見る(出エジプト3:1〜6)

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