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                                            2013/3/17の礼拝説教
栄光の雲

出エジプト40:34〜38
Uペテロ1:16〜21
マタイ17:5〜8               皆川尚一牧師
 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった(出エジプト40:34〜38)。

栄光の雲
  この34節〜35節の聖句を注意深く読むと、雲と栄光とは区別されているようです。雲は会見の幕屋を蔽いますが、主の栄光は幕屋の中に満ちます。この雲は自然界にある水蒸気の雲ではなく、天使セラフィムの群れが雲のように見えるのです。それはこれまでの旅行中、雲が柱のように立ってイスラエルの民を導き、民の上空を蔽って保護してくれていた、あの天使の雲と同じです。天使の雲は幕屋の上をおおい、主は幕屋の中に宿られたので幕屋は主の栄光で輝きました。

神の内住
 神の栄光は天と地に満ちていますが、これは宇宙よりも偉大なる神が、宇宙全体を満たしているからです。その神様は同時にシナイ山に臨在してモーセと交わられました。その神様は同時に地上の幕屋に臨在して幕屋を栄光で満たしたのです。従って幕屋は「神の体」となりました。幕屋は神の臨在の象徴であるだけでなく、神の内住の場となったのです。すばらしい恵みですね。神の栄光が満ちていてモーセは幕屋の中に入れなかったのです。この移動式天幕が、やがてカナンの地に「神の宮」として建てられ、神の内住の場となります。そして、地上に降臨された神の子「イエス様の体」が神の内住の場となります。そして、「信者個人の体」が神の内住の場となり、「教会」が神の内住の場となりました。

 「教会」とは、ヘブライ語では「カーハール」、ギリシャ語では「エクレシア」と言って、「会衆」を意味します。教会堂ではありません。教会堂がなくても、主の御名を崇める「会衆」の中に主は臨在されます。「会衆」が「教会」なのです。しかし、讃美と感謝が充満している「教会堂」の中に、主が宿られることもあります。そういう教会堂には、集会のない時でも主の栄光が在って、祈りと讃美が湧き上がる暖かいムードが感じられます。しかし、聖霊による祈りや讃美が欠けている教会には、それが感じられず、冷たいムードがただよっています。

栄光の雲に導かれる
 さて、次に36節〜38節を見て下さい。
 「雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らは旅路において常にそうであった」
 わたしたちもイスラエルの民のように主の栄光の雲に導かれて天国への旅路を歩みたいと思いますね。そのためには主の栄光を宿す人になる必要があります。

聖なる光を浴びた人
 エルサレムのユダヤ教の総司教であったアブラハム・イサク・クックというラビは、こう言いました、「聖なる光(オロット・ハ・コディッシュ)」に圧倒される経験が必要である。聖書の宗教はこのように確かな神秘の根源に立っているのだ。新しい人類は皆この経験を回復せねばならぬ。真の世界には、光と生命が充満しており、静的ではなく、動的であり、静止してはおらず、完全なものになろうとする強い衝動に駆られて躍進し、渇望し続けている。そしてこの渇望が満たされ、被造物一切が神に回帰するのは、聖なる光を注ぎ込まれる時なのである。人間の心は宇宙の生々発展する光を集めるレンズの焦点のようであり、その光によって全宇宙が贖われるのだ」と。
 モーセはこの聖なる光を浴びた人でした。パウロもこの聖なる光を浴びた人でした。わたしたちもキリストの聖なる光を浴びて、栄光の雲に導かれる民として生きて行こうではありませんか。
                                     アーメン
次回予告 13.3.24  キリストの僕(ローマ1:1)

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