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                                            2013/2/10の礼拝説教
主の光を受ける

出エジプト34:29〜35
黙示録1:12〜16
マタイ17:1〜8               皆川尚一牧師
 モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセはさきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。モーセは彼らを呼んだ。アロンと会衆のかしらたちとがみな、モーセのもとに帰ってきたので、モーセは彼らと語った。その後、イスラエルの人々がみな近よったので、モーセは主がシナイ山で彼に語られたことを、ことごとく彼らにさとした。モーセは彼らと語り終えた時、顔おおいを顔に当てた。シカシモーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、その命じられた事をイスラエルの人々に告げた。イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた(出エジプト34:29〜35)。

モーセの顔の光
  シナイ山の上で主と語ったモーセは自分の顔の皮が光を放っていることに気づきませんでした。それは主の御光を受けて輝いていたのです。神様は光そのものであり、光の根源であられます。その光の中に命があり、愛があり、義があります。神様とお会いして光を受けたモーセの顔の皮が光を放っていました。この意味を解説すれば次のようになります。

 ご存知のように、創世記第2章には、「主なる神は土のちりで人の体を造って命の息をその鼻に吹き入れられた」(2:7)と記されています。
 土のちりと言えば、下等の物質と現代人は考えますが、それは大変な誤解です。土のちりとは上質の粘土であって、それをこねて人間の体を造ったというのは、最高の美術品を造ったことになります。それにうわぐすりを塗って焼き物にするとピカピカ光る陶器になります。それは、本来、土そのものが光で出来ているからです。現代科学では、人間の肉体の細胞は全部光から成り立っていることが分かってきました。そして、その中に吹き入れられた神の息とは、霊魂のことです。そして霊魂も神様の分霊ですから光から成り立っています。霊魂と肉体の違いは同じ光であっても、霊魂の方は精密な波動を持ち、肉体の方は粗い波動を持っています。神様の光の波動はなにものよりも高い精密な波動ですから、モーセが神様と出会って親しくお交わりする間に、彼の霊魂も肉体も神様の光に感化されて、ある程度輝くようになりました。そのため人々が恐れてモーセに近づき難くなったので、モーセは人と会うときには顔にヴェールを掛けるようにしました。

イエス様の顔の光
 聖書に出てくる輝いた顔の人は先ず第一にイエス様です。先ほど朗読した《マタイ17:1〜8》を見て下さい。高い山の上で、3人の弟子たちの見ている前で、「太陽のように輝く御顔」に変ったのです。それは肉体のヴェールが掛かっている普段のイエス様ではなく、その霊魂の御顔そのものが現わされたのです。なぜなら、《ヨハネの黙示録1:6》にも、ヨハネがパトモスの島で見たイエス様の御顔は「強く照り輝く太陽のようであった」と記されています。ヨハネはそれを見た時、倒れて死んだようになりました。

ステパノの顔の光
 更に、《使徒6:15》によれば、原始キリスト教会の7人の執事の1人であったステパノはユダヤの最高議会でイエスがキリストであることを証ししたとき、「議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた」と記されています。それは天使のように輝いていたのです。なぜなら、ステパノは聖霊で満たされていたからです。

主の光を受ける
 これは、わたしたちも聖霊で満たされるとき、主の光を受けて輝く顔の人になれるということです。普段は肉体のヴェールに覆われているので只の人に見えますが、神の霊に満たされて語るとき、祈るとき、本人は気づかなくても、神様はその人が神の人であることを人々に啓示するために、霊の目を開いて光を見せて下さいます。それは、その人が尊ばれることによって、神様が尊ばれるためです。わたしたちも主の光を受けて輝く人になることを求めて生きようではありませんか。
                                      アーメン
次回予告 13.2.17  知恵と知識の霊(出エジプト35:30〜35)

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