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                                            2012/12/2の礼拝説教
主の山に登る

出エジプト24:12
Uペテロ1:16〜19
マタイ5:1〜3               皆川尚一牧師
主の山に登る
  ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて。そこにいなさい。彼らに教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」(出エジプト24:12)。

  主はモーセに律法と戒めとを授けるために、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい」と言われました。その山とはシナイ山で、山頂には厚い雲が渦巻き、雷鳴がとどろき、稲妻が走っていました。それは主が天から降って山頂に留まっておられるしるしでした。主はモーセが登ってきて、そこに留まっているように命じられたのです。
 
 では、一般の民はどうかというと、主は「山のふもとに垣根を廻らして、だれも山に近づけてはならない」と命じ、3日間身を清め、衣服を清めて主のご降臨を待ち望むように準備させ、3日目に山の上に下られました。一般の民は心が汚れていて直接神様のみ声を聞くことが出来ないので、選ばれ清められた神の人モーセだけは神のお告げを受け取りました。
 
山上の垂訓
 それと同じく、イエス様も弟子たちに大切な教訓を授けるのに、山の上に弟子たちを召されました。《マタイ5:1〜3》を見て下さい。
 「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた、『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである』」。
 ここでも主イエス様は群衆を山の上に招かず、ただ弟子たちだけを連れて、ガリラヤ湖畔、カペナウムの町の背後にある「祝福の山」に登りました。イエス様が山頂の木陰に腰を下ろされると、弟子たちもその前に腰を下ろして、静まって、お話が始まるのを待ちました。

山の上は聖所
 なぜ山に登るのかというと、山の上は聖なる所だからです。シナイ山は海抜2273メートルの高い山です。ガリラヤの祝福の山は海抜150メートル位の低い山です。高さは違っても、そこは俗界から離れてひたすら神様のみ声を聞くに相応しい場所でありました。我欲を捨てて、天からの声を聞き、神様の養いを受けるためには、それだけの心の備えが必要です。
 「こころの貧しい人たちは、さいわいである」
とは、「霊の貧しい人」です。「神様のお言葉なしには生きることが出来ない人間は幸せだ」。言い換えれば、「飢え渇いて神を慕う人は幸せだ」とイエス様は言われたのです。イスラエルの民が荒野で天から降るマナで養われたように、今、わたしたちはイエス様のお言葉で養われるのであります。

ピラミッドの秘密
 ところで、ピラミッドと言えば、だれもが先ずエジプトのピラミッドを思うでしょう。しかし、本当はビラミッドは日本から始まったのです。竹内文書によれば、超古代の地球に天日球国(あめのひだまのくに)から宇宙船に乗って天皇一族が降りて来たのがこの日本国であった。天皇は山の上に御所を設けて、そこで天の神様のお告げを受けて地球を治めた。それを日本語で「日来神宮(ヒラミット)」と言った。日本の山は火山が多く、富士山のような形をしている。それがエジプトでは山がないので人工の三角山を築き、その天辺に太陽石をおいて天との通信所としピラミッドと呼んだということです。この頃流行りの言葉で言えば、ピラミッドはエネルギースポットで、そこに立って心を澄ませると神の声をきくことが出来るし、心も体も浄化されると言います。

教会も個人も
 その意味では、山の上ではなくても、キリストの教会、キリスト者もまた、主の山に相当するエネルギースポットだと言えるでしょう。もちろん、エゴや貪欲や闘争心の渦巻く所には、主は宿られません。しかし、自分の罪や汚れから救われたいと切実に願い求める人の内側に救い主イエス様は来て下さいます。今日から、クリスマスを待ち望むアドベントに入ります。この世の騒音を遠ざけて、「イエス様、心を開きます。わたしの内側に来て、お宿り下さい」と祈ろうではありませんか。
                                     アーメン
次回予告 12.12.9  純金の信仰(出エジプト25:11)

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