トップページ >> 説教 >> 出エジプト >> (38)
                                            2012/9/30の礼拝説教
偶像を拝むな

出エジプト20:4〜6
Tヨハネ5:20〜21
ヨハネ4:21〜24               皆川尚一牧師
偶像を拝むな
  「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下と水の中にあるももの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたし、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」(出エジプト20:4〜6)。

 十戒の第一条は、
 「あなたはわたしのほかになにものをも神とはしない」。
 目に見えない偉大な霊である宇宙万物の創造主、即ち生みの親である神様のほかに神様はいない。その神様がイスラエルをエジプトの奴隷の境遇から救い出して下さったのですから、決して他のものを神様として仕えることはしないのです。
 次に、第二条は礼拝様式の問題です。
 「あなたは自分のために刻んだ像を造らない」
 これは「自分のために偶像を造って拝まない」ということです。何で自分のために偶像を造るのかというと、人間にとって便利に取り扱えるからです。その実例を挙げてみましょう。

テラピム
 昔、アブラハムの孫ヤコブはハランに住んでいた叔父のラバンの許で多くの家畜を殖やしてカナンに帰ろうとしました。その時、叔父に引きとめられるのを恐れて、ラバンが羊の毛を刈る作業のために3日間家を留守にした隙に、妻子と家の子と家畜の群れを連れて逃げ出しました。その時、ヤコブの妻ラケルは父ラバンの所有のテラピムを盗み出しました。神様はラバンの夢枕に立って、ヤコブが逃げたことを教え、「ヤコブを責めてはいけない」と戒めました。ラバンは一族を率いてヤコブのあとを追い、七日目に追いつきました。そして、ラバンは、逃げたことではなく、「なぜあなたはわたしの神を盗んだのですか」とヤコブを問いただしました。「わたしの神を盗んだ」なんて滑稽な質問ですが、ラバンは大真面目だったのです。ヤコブはラケルがテラピムを盗んだことを知らなかったので、自由に天幕を捜索することを許しましたが、見つかりませんでした。実は、ラケルが自分のラクダの鞍の下に入れ、その上に坐っていたのです。「わたしは女の常のことがあって、立ち上がれません」とラケルが言ったので、テラピムはついに見つかりませんでした。ラケルかそれを盗んだのは、テラピムが礼拝用だけでなく、家督相続の権利の印だったからだと考えられています。ヤコブとラバンは和平条約を結んで別れました。
(創世記第31章)。お尻の下に敷ける神様なんて可笑しいですね。

テラピムとエポデ
 今一つの実例は、士師記第17章にあります。
 エフライムの山地に住むミカと言う金持がいました。ミカの母親は銀二百枚で銀細工人にテラピムとエポデを造らせ、自分の家の中に神の宮を設けてそこにテラピムとエポデを安置しました。そして、ミカの子の一人を立てて祭司として祭(礼拝)を執り行わせました。「そのころイスラエルに王がなかったので、人々は自分たちの目に正しいと思うことを行った」と書いてあります。
 こうしたテラピムやエポデの形や大きさはどんな文献にも書いてありませんが、細長い形のペンくらいの大きさのもので、占いにも使ったようです。それはみな自分に都合よく扱える品物でした。

縫いぐるみのイエス様
 では、目に見える姿でこの世に宿られた神の独り子イエス様はどうでしょうか。キリスト教会では、初めはイエス様を象徴的に魚や錨の絵で表現しましたか、やがて、絵に描いたり、像を造ったりするようになりました。ギリシャ正教会は絵ならば良いとして、イコンと呼ぶ聖画を飾って拝むことにし、ローマ・カトリック教会では像も絵もよろしいとしました。

 わたしの経験した実例では、80歳を過ぎたある老婦人がクリスチャンになったとき、そのお嫁さんがおばあちゃんに解りやすいようにと縫ぐるみのイエス様を作って上げました。「ほら、おばあちゃん、これがイエス様だよ。お祈りするときは、これを握って『イエス様』と言って祈るんだよ」と教えました。未だ認知症になったわけでもないのに、親切心からやったことです。わたしはそれを知りませんでした。ある時、おばあちゃんが病気で入院したので、わたしがお見舞いに行って、「では、お祈りしましょう」と言いますと、おばあちゃんが、「ちょっと待ってください。イエス様がどこかに行ってしまったので、見つけますから」と行って、掛け布団の下を捜し回って、「あった、あった」と縫ぐるみのイエス様を嬉しそうに取り出しました。この実例で分かるように、自分のために偶像にしてしまうと反って神様を粗末にすることになります。

霊とまことの神
 そこで、さきほど朗読した、主イエス様がサマリヤの女に言われたみことばをご覧下さい。《ヨハネ福音書4:21〜24》です。
 「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。〜中略〜しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
 偶像だけではなく、礼拝の場所にもこだわる必要がないのです。人間ひとりびとりの体が神の宮であります。この体の中に見えない霊である神様が宿り、この体の内側で霊とまことの礼拝が行われるのです。宇宙よりも偉大なる神様が全宇宙に満ち満ちていると同時に私たちの体の中にもご臨在下さっています。ですから偶像なんか必要ありません。いつも心と心、霊と霊で交流し、結ばれています。だから、偶像は要らないのです。ではなぜ一緒に集まって礼拝するのかというと、神様を宿す人が集まると、その集まりの中に神様が宿られるからです。集まりの中で神様の御名を呼び、祈り、讃美を歌う。その中に主が臨在されるから、一人で礼拝するよりも、もつと力強く礼拝できるでしょう。その信仰をもって生きて行こうではありませんか。
                                    アーメン
次回予告 12.9.30 主の御名を呼ぶ(出エジプト20:7)

トップページ >> 説教 >> 出エジプト >> (38) >> (39)へ進む