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                                            2012/5/27の礼拝説教
聖霊の力

出エジプト6:10〜13
使徒2:1〜4
マタイ10:16〜20               皆川尚一牧師
くちびるに割礼のない人
  さて主はモーセに言われた、「エジプトの王パロのところに行って、彼がイスラエルの人々をその国から去らせるように話しなさい」。モーセは主にむかって言った、「イスラエルの人々でさえ、されての言うことを聞かなかったのに、どうして、くちびるに割礼のないわたしの言うことを、パロが聞き入れましようか」。しかし、主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々と、エジプトの王パロのもとに行かせ、イスラエルの人々をエジプトの地から導き出せと命じられた(出エジプト6:10〜13)。

  モーセは神様から命じられたとき、「くちびるに割礼のないわたし」の言うことを、パロが聞き入れるはずがない」と答えました。「くちびるに割礼がない」とは、「くちびるが聖別されていない」ということです。聖別されるとは、神様専用の道具として選ばれることです。ですから、モーセは自分の口が神の言葉を語るに相応しく清められていないと思っていたことが分かります。しかし、それは思い違いでした。モーセはホレブの山で燃える柴の中から現れた神様を見、「わたしの言葉を語れ」と命じられたことによって、既に聖別されていたのです。それなのに、自分が生まれつき口下手だとか、エジプトの王宮で育ったとか、同胞に受け入れられずにエジプトを逃げ出したとかいう劣等感のために、自分は聖別されていないと思い込んでいました。確かに神様と出会う前まではそうだったでしょう。
 しかし、今は違います。モーセは神の人であり、神の言葉を語る人として、ホレブの山で聖別されたのです。主が彼の内側に宿り、彼と共にエジプトに来て、パロに話しておられるのです。

語る(ダベル)
 日本語で「話す、語る」という語は、へブライ語では「ダベル」と言います。日本語の「だべる」は「駄弁る」と書いて、「大した意味のないおしゃべりをする」という意味になっていますが、ヘブライ語の「ダベル」には神様や人が大切なことを語るという意味があります。そのためには神の霊が宿る必要があります。神様が人の口を通して語られるからです。

父の霊が語る
 さて、イエス様は12使徒を世に派遣する時に、次の注意を与えました。
 「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者はあなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」(マタイ10:16〜20)。
 12使徒たちは、イエス様が彼らひとりびとりの頭に手をおいて聖霊が宿るようにお祈りされたことによって、天の父の霊が宿る人になりました。それによって権威ある神の言葉を語る人になったのです。それでも尚、彼らの語る言葉は極めて人間臭いものが多かったと言えます。もっと、もっと、圧倒的な聖霊の満たしが必要でした。そこで、、甦られたイエス様は弟子たちに言われました、
 「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。

イエスの御霊が降る
 この「わたしの父が約束されたもの」とは、イエスの御霊のことです。
 「わたしは父にお願いしよう。父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:16〜17)。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」(ヨハネ14:26)。
 この「別の助け主」の「別の」とは、ギリシャ語の「アロス」が使われています。「別の」というギリシャ語には二通りあって、「ヘテロス」というのは全く違った別の性質を意味しますが、「アロス」というのは同じ性質であるが別の形を意味します。つまり、天に昇られたイエス様が、別の形で、聖霊として降ってきて、私たちのからだの中に宿られるという約束なのです。これがペンテコステの聖霊降臨によって実現したのです。

ペンテコステの出来事
 ペンテコステの日に、120名ほどの弟子たちが大きな二階部屋に集まって、聖霊を待ち望んでお祈りしていました。その時、突然、ゴォーッという暴風が天から吹いてきたような音が部屋いっぱいに鳴り響き、舌のようものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出しました。
 それは習い憶えた言葉ではないのに、色々の外国語で神様の救いの福音を語る奇跡が起こったのです。それは外国人に対する証しです。
 聖霊の語らせる言葉は、外国語とは限りません。この日、騒ぎを聞いて集まってきたユダヤ人や外国人の群衆は、ペテロを始め弟子たちが語る「イエス・キリストの福音」を聞いて、3千人も信仰にはいりました。このように、聖霊によって聖別されると平凡なただの人が、権威ある神の人として変身するのです。

聖霊の力
 イエス様が諭された通りに、ペテロもヨハネも神の言葉を語って、生まれながらの足なえを癒し、捕えられて衆議所で裁判を受け、大祭司の法廷で、堂々と神の言葉を語りました、
 「この人が癒されたのは、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中から甦らせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。この人による以外に救いはない」と。
 このような命賭けの証しをする力は聖霊の力以外にはありません。

 ある実例を紹介しますと、既に、94歳で天に召された林田金弥牧師先生は、86歳の時、聖霊で満たされ、教会堂を乗っ取りに来たヤクザの親分に対し、両手を高く挙げて異言を語りました。するとヤクザは「キャン、キャン」叫んで車に飛び乗り、一目散に逃げて行き、二度と教会を狙うことはなくなりました。

 今一つ大切なことは、命がけでなく、権威ありげでもなく、ごく平凡な会話の中で、神の言葉と自覚しないで何気なく語る中に、神様が語らせるお言葉があるのです。その意味の重さに、語った本人も、聞いた人も、ハッとして「神様が語られた」と気づくことがあります。

 わたしたちもイエス様の御霊が自分の中に宿っていることを信じると共に、日々新しく心を信仰と愛で燃やし、繰り返し充満して働いて下さるように祈ろうではありませんか。
                                     アーメン
次回予告 12.6.3 神の信任状(出エジプト7:8〜13)

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