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                                            2012/5/13の礼拝説教
苦難の意義

出エジプト5:10〜23
ローマ5:1〜5
マタイ5:45〜46               皆川尚一牧師
イスラエルの叫び
  そこで民を追い使う者たちと、民のかしらたちは出て行って、民に言った、「パロはこう仰せられる、『あなたがたに、わらは与えない。自分で行って、見つかる所から、わらを取ってくるがよい。しかし、働きは少しも減らしてはならない』と」。そこで民はエジプトの全地に散って、わらのかわりに、刈り株を集めた。追い使う者たちは、彼らをせき立てて言った、「わらがあった時と同じように、あなたがたの働きの日ごとの分を仕上げなければならない」。パロの追い使う者たちがイスラエルの人々の上に立てたかしらたちは、打たれて、「なぜ、あなたがたは、れんが作りの仕事を、きょうも、前のように仕上げないのか」と言われた。
 そこで、イスラエルのかしらたちはパロのところに行き、叫んで言った、「あなたはなぜ、しもべどもにこんなことをなさるのですか。しもべどもは、わらを与えられず、しかも彼らはわたしたちに、『れんがは作れ』と言うのです。その上、しもべどもは打たれています。罪はあなたの民にあるのです」。パロは言った、「あなたがたは、なまけ者だ、なまけ者だ。それだから、『行って、主に犠牲をささげさせよ』というのだ。さあ、行って働きなさい。わらは与えないが、なおあなたがたは定めた数のれんがを納めなければならない」。イスラエルの人々のかしらたちは、「れんがの日ごとの分をへらしてはならない」と言われたので、悪い事態になったことを知った。彼らがパロを離れて出てきた時、彼らに会おうとして立っていたモーセとアロンに会ったので、彼らに言った、「主があなたがたをごらんになって、さばかれますように。あなたがたは、わたしたちをパロとその家来たちにきらわせ、つるぎを彼らの手に渡して、殺させようとしておられるのです」。
 モーセは主のもとに帰って言った、「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしたちをつかわされたのですか。わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、少しもあなたの民を救おうとなさいません」(出エジプト4:45〜46)。

  モーセとアロンがエジプト王パロに向かって、「イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と言った結果は最悪でした。パロは主を嘲り、反って奴隷が担うれんが作りの条件を厳しくしました。

 それは、これまで奴隷たちにれんがを作るに必要なわらを支給していたのを止め、民が自分でわらを集めて泥に混ぜなければならなくなりました。わらは簡単に手にはいらず、わらの刈り株から取らねばなりません。
 その余計にかかる手間と時間はかなりのものであるのに、作るれんがの数はこれまでと同じにせよ、という命令です。毎日の肉体労働は過酷なものになりました。課せられたノルマを果たせないとイスラエル人の奴隷頭が監督から鞭で打たれるのです。奴隷頭たちはパロの宮廷に行ってエジプト人の監督が無理なノルマを課したと訴えました。しかし、パロは奴隷頭たちに「お前たちはなまけものだ」と叱りつけたので、これはパロから出た命令であることが分かり、最悪の事態になったと悟りました。

 奴隷頭たちがガッカリして宮殿から出てきた時、モーセとアロンに出会ったので、パロはイスラエルを皆殺しにするためにこの命令を発したのだと訴えました。そして、その責任はモーセとアロンにあるから、主があなたがたを裁いて下さるようにと言いました。
 そこで、モーセとアロンは主に祈りました、
 「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしたちをつかわされたのですか。わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、少しもあなたの民を救おうとなさいません」と。

イエス様の叫び
 「なぜ、こんなに苦しまなければならないのですか?」という叫びは、皆さんもこれまでいくたびか神様に発したことでしょう。
 苦しんでいる最中には、なかなかその意味が分からない場合が多いと思います。誰だってそう叫びたくなるときがあるでしょう。直ぐに答が得られなくて、何度も、何度も、おなじ訴えを神様に発するほかないのです。
 イエス様でさえも、十字架の上で叫ばれました、
  「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
  (神様,神様、なぜ、わたしを見捨てたんですか)
でも、イエス様は絶望して恨み言を言ったのではありません。これは詩篇第22篇の祈りそのものだったのです。その祈りはすぐに「神様、あなたを信じます」と続くのです。天地万物の主は、わたしのお父様であって、必ずわたしを救い出して下さると信ずる。それは、ただの信念ではなくて、毎日お祈りすることによって心に宿る温かい神の愛と、み言葉による、明るい信仰です。イエス様の叫びは神に聞かれ、3日目の復活となりました。

タルムードの言葉 
 ユダヤ教のタルムードの中に素適な言葉があります。
それは、「日ごとに神の臨在に接する36人の敬虔者によって世界は支えられている」というのです。この敬虔者とは、聖職者に限りません、ただの主婦、商人、サラリーマン、農夫、子供、病人、囚人、奴隷労働者の中にそういう人はいるのです。

シベリヤ女囚・益田 泉 
 囚人といえば、戦後の大連でソビエト当局からスパイ罪で重労働25年の刑を受け、シベリヤの女子刑務所に送られた益田 泉さんの話があります。益田さんはホーリネス教会の牧師の娘さんで、脊髄性小児麻痺のため左手が利きませんでした。益田さんは無実の罪で囚人となり、コップ一杯の水で洗顔、ペーパーなしの原始生活と強制労働に耐えて、泣きながら祈る毎日でした。祈っていたらエストニヤの婦人から石鹸を貰うことができ、それで毎朝歯を磨いたそうです。心に聖書のみ言葉が浮かぶ、神の愛が泉のように湧く、わたしは本当に幸せ者だと感謝して、明るく生活することが出来、周りの囚人たちの光となったそうです。彼女は4年後に釈放されて日本に帰国し、相模大野教会でも神の恵みを証しして下さいました。

苦難の意義
 てすから、祈るということはあらゆる艱難と逆境に耐えて成長する力となります。《ローマ5:3〜5》を見て下さい。
 「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。
 ここに、苦難の意義があります。どうか、わたしたちは神様の愛を毎日昼も夜も心に満たされて、家族を支え、教会を支え、日本を支え、世界を支える人として成長して行こうではありませんか。
                                     アーメン
次回予告 12.5.20 神中心の人生(出エジプト6:1〜9)

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