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  死を見つめる

   伝道の書7:1〜6
   Uテモテ4:6〜8
   マタイ16:21〜28                皆川尚一牧師
死を見つめる
  良き名は良き油にまさり、死ぬる日は生まるる日にまさる。
  悲しみの家にはいるのは、宴会の家に入るのにまさる。
  死はすべての人の終りだからである。生きている者は、
  これを心にとめる。悲しみは笑いにまさる。
  顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。
  賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。
  賢い者の戒めを聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。
  愚かな者の笑いは、かまの下に燃えるいばらの音のようである。
  これもまた空である(伝道の書7章1〜6節)。

 人間が見つめたがらないものが二つあります。それは自分の死と
自分の罪です。
 しかし、伝道者ソロモンはあえてここで死を見つめているのです。
それは私たち一人一人にとって、大切なことだからでしょう。

 「良き名は良き油にまさり、死ぬる日は生まるる日にまさる」(1節)

とは対句になっています。「良き名」とは名声のことです。良い仕事、良い生き方をして有名になり、高い地位に昇った人でも、生きている間には
思いもかけない失敗や境遇の変化によって名声を失うことがあります。死ぬ日まで名声を保って、遂にその生涯を閉じるならば、死ぬる日は
生まるる日にまさるわけです。
 「良き油」とは赤ちゃんが生まれると産湯をつかわせて、その体に高価でかぐわしい香油を塗る習慣を指していると思われます。
 つまり、人が死ぬる日は、その名声が定まる日であるからめでたい。
もう苦しむことはないし、人生の害悪を見なくて済むのだから。
 しかし、生まれてきた人は多くの苦労をこれから重ねなければならないし、社会の不義罪悪に憤慨しながら生きていかねばならない。
だから死ぬる日は生まるる日にまさるのだというのです。
 * 作家の遠藤周作氏が召されて、四谷の聖イグナチオ教会で葬儀が行われました。その日には親交のあった作家やファンの人たちが4000人以上も参列したそうです。その葬儀の中で司祭が語りました、「遠藤さんは今まで、人々に深い感動を与える作品を次々と世に送りだし、数多くの名誉ある賞を受賞されてきました。遠藤さんは、病気に苦しみながらもそれを乗り越え、それこそ身を削る思いで、素晴らしい作品を産み出してきたのです。今、神様はその遠藤さんに、これまでの賞とは比較にならないほど、素晴らしい勲章を与えてくださっていることでしょう」と。 こうした葬儀の辞を読みますと、私たちは使徒パウロの言葉を想い出しますね。

 「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、
  走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
  今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、
  公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。
  わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人
  にも授けて下さるであろう」(Uテモテ4:6〜8)。  

これはパウロの遺言とも言うべき最後の手紙に記されている言葉です。遠藤周作も三浦綾子も地上で受けたどんな賞や名声にも優る栄冠を
天国で受けていることでしょう。

死は心を賢くする
 「悲しみの家」とは、葬儀に続く服喪期間の家のことでしょう。
これは7日間守られる習わしでした。また、「宴会の家」とは赤ちゃんが
生まれてから割礼を受けるまでの7日間続く宴会のことと考えられます。なぜ悲しみの家に入る方がまさっているかと言えば、人はみないつかは死ぬからであります。死を目前にして悲しむ人は賢い思慮深い人になるでしょう。 それぞれの人生が個性豊かで、みな違うように、死も一つとして同じものはありません。私は子供の頃からも、牧師になってからも、
多くの人の死に出会ってきました。関わりの薄い人はともかく、親しい人の死は、大切な存在が決定的な形で目の前から去って行くのですから、自分にも他の人にもいずれそれが訪れることを否応なしに、厳粛な事実として突きつけられるものです。
 親しい人の死を受け入れる事は、普段とは全く違った意識の中に入る事です。去っていった人がどんなに自分を愛してくれたか、自分もその人をどれほど愛していたかを実感するのです。そして、普段は当たり前と
受けとめていた人間の存在そのものの大切さを思い巡らし、生きる意味を問い直します。日常的な時間から人生の意味が鮮やかに切り取られ、深い意味を持って迫ってくるのです。そして、去って行った人が、遠く離れて無縁な人になってしまったのではなく、もっと身近な存在として、自分を暖かく見守り、包んでくれている事も、だんだんと分かってくるようになるでしょう。

 「賢い者の心は悲しみの家にあり、
  愚かな者の心は楽しみの家にある。
  賢い者の戒めを聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。
  愚かな者の笑いは、かまの下に燃えるいばらの音のようである。
  これもまた空である」(4〜6節)。

 これを読む人は、主イエス様の言われたみことばを思うでしょう。

「あなたがた、今泣いている人たちは幸いだ。笑うようになるからである」
                                     (ルカ6:21)
「あなたがた、今笑っている人たちはわざわいだ。
悲しみ泣くようになるからである」                 (ルカ6:25)

生き通しの人生
 イエス様もまた、死を見つめておいでになりました。

 「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、
  長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、
  そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」
                                   (マタイ16:21)

 イエス様はご自分の死から、決して目をそらす事はされませんでした。何故なら、その死の重大な意味を悟っておられたからです。すべての人の罪を背負って十字架の上まで昇って行き、罪と滅びの中から人々の
霊魂をあがない出すための死を成し遂げるためです。だから、ペテロが
「とんでもないことです」と言って浅薄な心で引き止めた時、「サタンよ、
引き下がれ、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱りつけられたのです。  イエス様は明かに
死の彼方を見ておられました。死後三日目に甦ること、昇天すること、
天国から全ての人を引き寄せること、再び天から神の国を完成するために来られること、全ての未来を見通しておられました。イエス様にとってはまさに生き通しの人生であったのです。  私たちは今日、教会暦の
中で受難週を迎えました。なぜ、主のご受難を偲ぶのでしょうか。それはこの世に来られた主イエス様の愛のご苦難と死とにあずかると共に、
永遠の命にあずかるためです。
 イエス様と共に永遠の生き通しの人生へと生き進むためです。アーメン

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