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                                                   2015/05/24の礼拝説教
  火の洗礼

   使徒2:1〜4            皆川尚一牧師
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した(使徒2:1〜4)。  
聖霊降臨の出来事
  今日は教会の暦の中で、「聖霊降臨祭主日」と呼ばれる大変記念すべき日です。ここには、「五旬節の日」とありますが、過ぎ越しの祭の終わりから数えて五十日目にあたる「小麦の収穫祭」が行われる日でした。「五旬節」はギリシャ語では「ペンテコステの日」と呼ばれています。
  この日エルサレムのクリスチャンたちはマルコの家で祈祷会を開いていました。それは天に昇られたイエス様が天から送ると約束された聖霊が降って下さるのを待つ祈祷会でした。その日は主のご昇天から10日目のことでした。そこに約束の聖霊が降ったのです。  

  これは、不思議な霊現象でした。ゴォ一ッという激しい風の吹きつけるような音、舌のような、炎のようなものの出現。絵に描くと不気味な感じになります。あのペンテコステの日から現代まで、わたしたちが経験してきた聖霊降臨の現象はこの他にも色々あります。まぶしい光、大水の ひびき、立ちのぼる炎、からだごと宙に引上げられること、逆に地面や床に倒されること、また、異言を語り、預言をする、悪霊を追い出す、病気を癒すなど、沢山ありますが、今日は特に火のバプテスマ即ち、火の洗礼について取り上げたいと思います。

火の洗礼  
  火の洗礼とは面白い言葉ですね。洗礼と言えば普通は水の洗礼で、水はわたしたちの体や衣服を洗って汚れを清める働きがあります。洗礼とは原語のギリシャ語ではバプテスマと言って、流れる川の水に沈めたり、頭から水を掛けたり、教会で行う場合には頭に水を三度掛けたりして儀式を行います。それによって聖霊が降り、水で清めるようにその人の罪や汚れを洗い清めて下さるのです。
 しかし、水よりも更に力のあるのは火です。火は罪や汚れを焼き尽くす力を持っていますから、火の洗礼を受ける必要があります。そして、使徒行伝のペンテコステには各人の頭の上に炎のようなもの、舌のようなものがとどまったと書いてあります。それは神様がその人の中に宿って全人格を神の火で清めて、神の言葉を語らせて下さるしるしでした。

北郷久馬の証し  
 わたしの友人のお父さんで北郷久馬と言う人は、若いころ聖公会の教会で水の洗礼を受けてクリスチャンになりました。しかし、何か一つ物足りない気持ちがしてなりません。洗礼を受ける前の自分と受けてからあとの自分とがあまり変わらない。こんなはずではないのだが、と思って先輩の信者に相談すると、その人は、「実はわたしもそうなんだ。聖霊のバプテスマというものがあると聖書に書いてあるけれども、なかなか受けられないらしいですよ」という答えでした。そこで北郷さんは何とかして聖霊のバプテスマを受けたいと求め始めたのです。丁度その頃、千葉県の銚子でホーリネス派の特別聖会があり、それに参加して講師のメッセージを聴いているとき、北郷さんは聖霊の火に包まれました。すると自分の中から悪鬼がギリギリ歯噛みをしなから悔しがって飛び出して逃げていくのが見えました。あんな悪霊が自分の中にいたなんて思いもしなかったのですが、人を恨んだり、赦せなかったりすると悪霊が憑りついているのです。それ以来彼は、晴れ晴れとした讃美と感謝の人に生まれ変わったのです。ある人は「ペンテコステは個人的経験なり」と言いますが、実は初めのエルサレムキリスト教会は教会として火の洗礼を受けたのです。

メルキオ・タリの証し
  それで次に、教会が火の洗礼を受けた実例をお話ししましよう。インドネシアのチモール島の教会で起こった1965年9月26日夜の出来事です。200名ほどの老若男女が夜の祈祷会に集まってお祈りをしていました。いつものように一人ずつ祈っていたのが、突然皆か熱くなって一斉に祈り始めました。その時、消防署では火災報知器がけたたましく鳴りだして、「教会が火に包まれて燃えています」という電話が入りました。そこで消防車が駆け付けたのですが、どうも様子が可笑しいのです。教会堂は火に包まれて燃えていますが、火で焼けているわけではありません。彼らは神の火が燃えているのを見たのでした。その夜から人々は牧師だけでなく、神の言葉を語り始めました。異言を語り、預言をし、奇跡の癒しや不思議な神のわざが毎日起こりました。牧師を頭とする教会の秩序はちゃんと保たれつつ、信徒ひとりびとりが神様と一つになって喜び、感謝し、清められ、高められ、積極的に伝道する教会に生まれ変わったのです。、

相模大野教会の証し
 相模大野教会もそうでした。わたしが1966年11月12日に聖霊のバプテスマを受けてのち、教会全体として聖霊の満ち満ちた教会となりました。色々な奇跡が起こり、異言も預言も癒しも、国内宣教、海外宣教も盛んに行われて来ました。しんし、神の御業は一本調子で続くものではありません。激しい時もあれば、静かな時もあります。大切なことはいつも神様と一つ、神様の主導権に従って、神の中に自分を献げつくして行くことです。そうすれば必要なu時に腹の底から聖霊が立ち上がって、全身全霊を燃え上がらせて下さいます。こうして繰り返し常に新たに、聖霊の火を燃え立たせて生きてゆこうではありませんか。アーメン

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