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                                                    2005/05/15の礼拝説教
  神の息吹き

   使徒2:1〜4
   エゼキエル37:1〜10
   ヨハネ20:19〜23                皆川尚一牧師
危機感と期待感
  今日は教会の暦の中で、「聖霊降臨祭主日」と呼ばれる大変記念すべき日です。ここには、「五旬節の日」とありますが、過ぎ越しの祭の終わりから数えて五十日目にあたる「小麦の収穫祭」が行われる日でした。
「五旬節」はギリシャ語では「ペンテコステの日」と呼ばれています。
この日エルサレムのクリスチャンたちは12使徒や聖母マリアと共に大きな二階の集会所に集まって祈祷会を開いていました。そのころの信者の数は約120人と記されていますが、全員がそろっていたかどうかはわかりません。しかし、かれらに共通のものが二つありました。
それは、共通の危機感と、共通の期待感です。

 第一に、共通の危機感とはイエス・キリストを十字架につけて殺した
ユダヤ人とローマ人の支配階級からの憎しみと迫害に囲まれていたことです。どうやって生き延びていくのかわからない。
いつも死の危険にさらされていたのです。

 第二に、共通の期待感とは、昇天したイエス・キリストが天から送られる聖霊によってバプテスマされることです。それがどういう意味をもって
いるのかは、ある程度予想できました。それは甦られたイエス様があの晩この二階の集会所に集まって恐怖に震え戦いていた11人の使徒たちの前に現れて、「安かれ!聖霊を受けよ!」と言って彼らに息を吹きかけられたからです。その結果、彼らには不思議な平安と、喜びと、勇気が
宿りました。その上彼らはイエス様から、「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマされるであろう」と約束され、「エルサレムを離れないでそれを待て」と命じられていたからです。天から降るダイナミックな聖霊の力を受ければ、イエス様の生き証人として、世界の果てまでキリストの
救いを宣べ伝えることが出来ると主は言われました。ですから弟子たちは共通の期待感をもって聖霊が降るのを祈りつつ待ち望んだのです。

激しい風のように
 その期待は空しくありませんでした。いや、期待以上のことが
起ったのです。主のご昇天から10日目のことでした。

 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、
一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上に
とどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、
いろいろの他国の言葉で語り出した」(2〜4節)。

 これは、不思議な霊現象でした。ゴォ一ッという激しい風の吹きつけるような音、舌のような、炎のようなものの出現。絵に描くと不気味な感じになります。あのペンテコステの日から現代まで、わたしたちが経験して
きた聖霊降臨の現象はこの他にも色々あります。まぶしい光、大水の
ひびき、立ちのぼる炎、からだごと宙に引上げられること、逆に地面や床に倒されること、また、異言を語り、預言をする、悪霊を追い出す、病気を癒すなど、沢山あります。それはどれも貴重な経験だと思いますが、
他人と比べて自分を誇る種にしてはいけないのです。なぜなら、みんな神様のわざですから。神様はどの人の中にも宿りたいのです。その現象が激しく、強烈でなくても良いのです。神様は「そよ風」のように吹いて
来て、あなたに宿ります。それでも奇跡は起ります。あなたの中に住む
イエス様が何か良いこと、素晴らしいことをして下さいます。
わたしたちはこの40年間それらを経験してきました。

外国語をしゃべる
 ここで、「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とは、自分が習ったことのない言語で、その言葉を使う民族の人々に
対してイエス様の救いを証しすることです。その目的は神様が人種、
肌の色、言語の差別なくあらゆる人々を救うためです。

 今、地球上では、そういう差別があらゆる社会の中に見受けられます。白人は有色人種より偉いとか、白人でもヒットラーのように「アーリア人」が特別に選ばれた人種だという思想があります。ヒットラ一は死んでも、その思想は生きています。だから世界中をアーリア系白人の支配下に
置いて、有色人種を家畜化し、奴隷化しつつあります。また、日本の竹内文書によれば、支那人は日本から見て「えだぐにのひと」という意味ですが、これを屈辱と考えた第3世紀の支那人で魏国の歴史家「陳寿」という人が「三国志」を書いて、中華思想を唱えました。それは「支那こそ世界文化の中心である」という愛国思想です。そして自分たちを中華の国と
して誇り、韓国を「倭国」と呼んで卑しめました(「魏志倭人伝」)。
ところが、三国志で「倭国」と呼ばれた韓国は自分たちを「小中華」として誇り、日本を「倭国」として卑しめています。そして、逆に戦前の日本人は支那人や韓国・朝鮮人を卑しめ、戦後は再び彼らから侵略国として卑しめられています。まさに堂々巡りだと言えるでしょう。今一つ取り上げたいのは、ユダヤ人と日本人のことです。ユダヤ人は神様から選ばれた
民族だから、全人類の長兄であり、絶対に滅びない優越した民族だというのは、イエス・キリストの救いから見れば意味のない優越思想です。
なぜならユダヤ人は世界・人類の救い主イエス・キリストの受け皿としてのみ選ばれたのですから。そして、そのユダヤ十部族や、十二部族の血が混じっている日本人も同様に絶対滅びない民族だというのも、意味のない優越思想です。なぜならば、神様はすべての人を国家や、民族や、血流によって選び分けられないからです。あらゆる民族、人種、色の
違い、言葉の違い、階級の違いを超えて、人はみな個人的に同じ
イエス・キリスト様によって救われるのです。それを神様が証明された
のが、ペンテコステの聖霊降臨の出来事であります。

神の息吹き
 エゼキエル書第37章を読むと、いわゆる「枯れた骨に対する預言」が記されています。神様が預言者エゼキエルを連れて行って、枯れた骨がるいるいとして重なる谷を見せられました。それは幻(まぼろし)ですからイスラエルの地なのか、バビロンの地なのか、それとも日本の地なのか、区別することが出来ません。とにかく戦争で死んだイスラエルの人々のようです。わたしは今回これを読んだとき、明治維新の戦いの中で
薩長連合軍に殺戮された会津の人々の有様とイメ一ジが重なりました。武士だけでなく、百姓も町人も老若男女の区別なく、殺し尽くされて、
亡骸は葬ることを許されず、風雨にさらされ、烏や野良犬に食われるままに放置され、会津の地はるいるいたる骨の重なる盆地と化したのです。また、「ビルマの竪琴」という映画を見た人は大東亜戦争の敗戦の
結果、インドからビルマの地にかけて、日本兵の骨が山々を埋めた光景を見ておののいたでしょう。また、広島、長崎の原爆も二つの都市を枯骨の谷としました。戦争は悲惨な殺戮をもたらしてきました。それらの骨を集めて墓に葬ったとしても、それだけで解決にはなりません。

 では、何か解決があるのでしょうか。あるのです。それは神の息吹きによる復活の希望です。山野に放置されて枯れた骨や、墓に葬られた骨が聖霊によって甦る希望は、イスラエル民族だけに与えられている特権ではありませんし、日本人だけに与えられている特権でもありません。
いっさいの差別を超えて、神様は聖霊を「全ての人に注ごう」
(使徒2:17)と約束しておいでになります。言い換えれば、
「主の名を呼び求めるものは全て救われる」(使徒2:21)のです。
それは、主の御霊があなたの心の支えになってくださるからです。
そうすれば、生きること、苦しむことが意味のあることになります。

人生にイエスと言う
 わたしは一昨日くまざわ書店で、ヴィクトル・フランクルの本を
見つけました。その本の主題は「それでも人生にイエスと言う」です。

 ご存知のように、フランクル博士はオーストリアのウイーンの精神科医でした。そしてユダヤ人だという罪でナチス・ドイツの強制収容所に入れられました。そこで先ず直面したのは「人間の尊厳と生命の価値の剥奪」でした。入所第1日目で、95%の人がガス室に送られ、残り5%の人が本物のシャワ一室で体を洗い、体の毛を一本残らず剃られて文字通り
丸裸になりました。許された持ち物と言えば、ベルト、ズボン吊り、眼鏡、脱腸帯しかありません。少しでも体が弱ってよろめいたりすると、直ぐ
親衛隊員に呼ばれてガス室送りになる。高圧電流の鉄線に飛びこんで自殺するか、と誰しも考えるけれども、結局同じことだと悟って自殺は
やめる。やがてどんどん無感動になり、無感覚になっていく。しかし、
内面的な自由は残っていたと言うのです。例えばフランクル博士は工場建設の現場に囚人たちが五列縦隊でよろめきながら行進していくとき、将来この収容所を出たさいウイーンの市民大学で講演をする自分の姿を心に描きつつ歩きました。その講演の主題は「強制収容所の心理学」というのです。彼はドイツの敗戦で奇跡的に連合軍に助け出されたのち、1946年にウイーンの市民大学でまさにその主題で講演をしました。
それがこの本になったのです。彼は何も望み得ない極限状況の中でも、ほんとうに宗教的な人々だけは生き延びたと記しています。彼は人生はそれ自体意味があるから、困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な
病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、人生にイエスと言うことが出来るというのです。
 アメリカでは、無気力、無感動、無目的になった大学生の数が80%に達したそうです。また、アメリカの十代の子供たちの50万人以上が自殺したいと思っているそうです。日本の青少年はどうでしょうか。青少年にかぎらず、多くの人々が生きる目的を求め、心の支えを求めています。それは心理学的なものではなく、天から人間の心の中に吹き込まれる
神の息吹きであります。それは今を生きる力であり、また、今意味深く
死ぬことの出来る力でもあります。
「ああ、神の息よ我らの上に吹き、我らを生かして下さい!」   アーメン

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