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                                                 2002年12月15日の礼拝説教
  キリストを着る

   ローマ13:11〜14
   詩篇96:7〜9
   マタイ22:1〜14                 皆川尚一牧師
着物の始まり
  なお、あなたがたは時を知っているのだから、
  特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りから
  さめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、
  初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
  夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、
  やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
  そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、
  昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
  あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。
  肉の欲を満たすことに心を向けてはならない(11〜14節)。

 人間が着物を身につけるようになったのは何時頃からでしょうか。
これはとても興味深い問題だと思います。
 聖書の創世記第2章〜第3章を開いて見て下さい。そこには最初の
人間アダムとエバが初めは裸であったけれども、ある事件の後から着物を着るようになったいきさつが記されているのです。アダムとエバは裸のままで、何の恥じらいもなく、恐れもなく、エデンの園で平和に暮らしていました。
 しかし、彼らがサタンの誘惑に負けて、神様のようになりたいと願って禁断の木の実を食べた時、ハッと目が開けて自分が裸であることを知りました。そこでいちじくの葉をつづり合わせて腰に巻きました。これが
着物の始まりです。その目的は裸の恥をかくすためだったのです。
 ところで、今まで裸でいても恥ずかしくなかったのに、
なぜ急にかくしたくなったのでしょうか?
 それは、神様に従う純真な心が汚れたからです。心が汚れ、霊魂が
汚れ、裸のままでいるとなにもかも見えてしまうような恐れを感じて、
いちじくの葉を腰に巻いたのですが、それだけでは足りませんでした。
いつもなら優しく嬉しい神様の足音が恐ろしいものに感じられて、茂みの中にからだ全体をかくしてしまいました。わたしたち人間の霊魂はビデオテープのようになっていて、日常生活の全てが録画、録音されているのだそうです。それも天然色でありまして、死に直面すると一生の光景が
全部テレビで見るように映し出されるのです。それは非常に短い時の間に全てが見せられて、神様と断絶した、孤独な霊魂の実態を知って恐れおののくことになります。神様の目はレントゲン光線のようにわたしたちの着物を通し、身体を通し、心を通して霊魂の奥底にまで到達しますから、かくすことはできません。
 人が自分の恥と罪とをかくして、自分を美しく見せるための着物は、
どんなに美しく飾られ、色どられ、宝石がちりばめられていてもただの
いちじくの葉と似たようなものです。
 又、人の善い性質、善い行いなどもいちじくの葉と同じです。善い人だ、立派な人だとほめられている人でも、神様のことになると頑として受けつけないことがあります。心が神様と調和していないためです。それが人間の根元的な罪です。その罪の結果、人は死ぬ者となりました。
神様から離れた霊魂の死は暗やみの中に落ちることです。

皮の着物
 そこで、神様はアダムとエバを呼び出して悔い改めさせようとしましたが、彼らは自分の責任を他の人になすりつけて悔い改めませんでした。そのため神様は安楽なエデンの園から彼らを追い出して自分の罪の
結果として生じてくる苦労に満ちた人生の旅路を通して罪を認め、神様のもとに悔い改めて帰ってくるようにとの愛の祈りをこめて彼らをエデンから追放されました。
 その愛のしるしとして、神様は彼らに皮の着物を着せて追い出したのです。この皮の着物とは何の皮だったのでしょうか?その頃人間は草食で未だ肉食をしていなかった時代ですから多分神様が羊か山羊を殺して、その皮で二人のために着物を作ってくださったのだと思われます。その意味は人の罪をおおうために羊か山羊の血を流して、その毛皮をもって人の全身をおおい、きよめ、ゆるすということです。このことから創世記第4章に出てくるアベルのように、祭壇を築いて羊や山羊を祭壇に献げて罪の赦しを祈るという礼拝が始まったのではないかと思われます。
このように皮の着物はいちじくにも優る深い意味をもっていますが、
未だ不完全なものです。

キリストを着る
 わたしたちを救う最高の完全な着物として、神様はそのひとり子を、
この世に送って下さいました。キリスト・イエスさまは天からくだって人と
なり、潔い神の小羊として十字架の祭壇の上に血を流して全人類の罪をおおって下さいました。キリストという新しい衣ですっぽりとおおわれる時に、わたしたちの罪は赦され、新しい人に変えられてゆくのです。
 どうか罪のない神の御子イエス様にいだかれて下さい。そうすれば、
あなたの心の汚れは清められ、傷はいやされ、健全な心、安らかな心になることが出来ます。義なるキリストを着て歩けば、毎日心は真っ直ぐ天につながり、だれに責められても恐れることはありません。
 イエス様の「天国のたとえ話」の中に出てくる「礼服」というのは「キリスト」のことです(マタイ22:1〜14)。このたとえ話の中の王様は天の神様です。王子様はイエス様です。天国の婚宴に招かれていた人々はユダヤ人です。しかし、彼らがイエス様をメシヤとして信じなかったので、神の
招きに応じる人はだれでも天国の宴会に加われるようになりました。
しかし、ただ一つの条件があります。それは神様の用意して下さった
「礼服」を着て入場することです。その礼服が「キリスト」なのです。
キリストを着ないで天国に入った人は外の暗やみにほうり出されます。
キリストを着ていないモグリのクリスチャンも同じことになります。
これがこのたとえ話の意味です。

キリストに着られる
 * 森田たま著「もめん随筆」の中に、こんなすばらしい言葉がありました。「着物は着るものであって着られるものでない事はだれでも知って
いる。だが、素晴らしく豪華な衣装に着られるという事は、それもまた
女にとって素晴らしい快楽の一つではないであろうか」(182ページ)。
キリストという着物をいただいて身にまとう時から「クリスチャン」と呼ばれます。「あゝ、恥ずかしい。わたしなどは到底それにふさわしくない」
と思ってクリスチャンであることを隠している人が少なくありません。
しかし、イエス・キリスト様の愛にいだかれ、つつまれ、感謝して生きていると、知らず知らずイエスさまに感化されて行くのです。自分から宣伝しないでも、他人から「あなたは何か普通の人と違いますね。何かを信じているのですか?」と尋ねられるようになります。キリストに着られる嬉しさ、有り難さが分かって来ます。それはこの世にいて、
すでに天国の光を着ているからです。
 皆さん、ローマ人への手紙13章12節以下を見て下さい。

「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちはやみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。
肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(12〜14節)。

 ヨハネ黙示録に書いてあるように、天国の夜明けが近づいています。だから、寝巻きを脱ぎ捨てて光の衣・光の戦闘服であるキリストを着て、やみの力に勝利する準備を整えましょう。 アーメン

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