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                                                  2002年3月31日の礼拝説教
  私は主を見た

   ヨハネ20:24〜29
   ヨブ19:25〜27
   Tペテロ1:8〜9                 皆川尚一牧師
疑いの人トマス
  12弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、
  イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」
  と言うと、トマスは彼らに言った、
  「わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、
  また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、
  決して信じない」。8日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、
  トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいって
  こられ、中に立って「安かれ」と言われた。
  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、
  わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきに
  さし入れてみなさい。信じない者にならないで、
  信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、
  「わが主よ、わが神よ」イエスは彼に言われた、
  「あなたはわたしを見たので信じたのか。
  見ないで信ずる者は、さいわいである」(24〜29節)。

 イエス様が甦って墓から出て来られたのは、死後三日目の日曜日の
朝でした。その朝初めてイエス様を見たのはマグダラのマリヤでした。
又、その夜10人の使徒が家の中に閉じこもっていた所に主イエス様が
出現されました。使徒のトマスはよそに行っていて、その場にいなかったのですが、帰って来ると他の10人が「主イエス様を見た」と言いました。
しかし、トマスはその証言を信じないで言いました、「わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と。これによってトマスは
「疑いの人」というレッテルを貼られました。その時、トマスは2つの点で大きな誤りを犯していたと思われます。
 第一に、トマスは自分の目と、自分の手とに頼っていました。トマスは
主イエス様が確かに死んだことを知っていました。太い釘で両手首を刺し貫かれ、槍で脇腹をえぐられたイエス様のおからだが冷たい亡がらになったのも知っていました。多分トマスの目と手とは、死んだ人間を何度も見たり、さわったりして、死んでしまったら冷たくなってしまい、決して生き返らないんだと知っていたのでしょう。だから、イエス様の死という大事件にぶつかって、トマスの心は絶望で真っ暗になっていたのでしょう。
「甦ったイエス様を見たなんて、目の錯覚じゃないの。気のせいだよ。
夢でも見たんじゃないの?」と言いたかったでしょう。
 第二のトマスの誤りは、イエス様が甦られることについての預言を
信じなかったことです。
 例えば、(1)詩篇16:10「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである」とあります。
(2)マルコ9:31イエス様の預言「人の子は人々の手にわたされ、
彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」。
 もしもトマスが、こうした神様の預言を信じて心に刻みつけていたならば、ほかの弟子たちが「復活のイエス様を見たよ」と興奮して語ったときに 「やっぱりそうだったのか!ハレルヤ!」と素直に喜んだことでしょう。
トマスの誤りは神様のみことばを信じていなかったことです。

信ずる者になれ
 しかし、イエス様は憐れみ深いお方です。次の日曜日にトマスも含めて
11人の使徒がそろって家に閉じこもっていたとき、その部屋の真中に、突然、イエス様が姿を現わしました。そして、真っ直ぐトマスを見て、
ご自身の手首をさし出して言われました、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27節)と。
 トマスはびっくりしました。前の日曜日に自分がしゃべった不信仰な
言葉をイエス様は聞いておられたのだ。「あゝ、わたしは何て不信仰な
人間だったのだろう。イエス様、ゆるして下さい!」という思いをこめて、
「わが主よ、わが神よ」と叫びました。ユダヤ人は人を神様だなんて無暗にあがめたりしない民族です。特にトマスは人一倍知性的な人ですから、この告白は「イエス様こそ、わたしの主、わたしの神様だ」という信仰の表明です。  16世紀のイタリヤの画家カラヴァッジオが「聖トマスの懐疑」という画を描いています。その画ではトマスが額に横じわをつくって実際にイエス様の脇腹の傷跡に右手の人差し指を入れているのですが、
それはやりすぎだと言わねばなりません。

変えられたトマス
 イエス様が天にお帰りになり、聖霊が降った後、聖霊に満たされた使徒たちは宣教のために各地へ散って行きました。その後10年ほど経って、聖母マリヤ様がエペソで最期を迎えられた時、臨終の床に使徒たちが
呼び集められました。その時トマスは間に合いませんでした。
埋葬を終え、墓を守っていると大勢の天使がやって来ました。聖母は
墓から起き上がり、美しい光に包まれて天に昇って行きました。トマスがやって来たとき、その話を聞いても、「見ていないから、信じられない」と言うと、不意に空から聖母マリヤの腰紐が降って来ました。トマスは信じて、この腰紐を鉢巻きにして、インドへの伝道に旅立ったと言われます。トマスはいのちがけでインド各地で宣教し、最後は南インドのマドラスでバラモン教徒に槍で刺されて殉教の死をとげました。このように疑いの
人トマスは信仰の人に変えられたのです。

私は主を見た
 わたしたちも同じだと思います。復活の主イエス様を見た人は変えられます。本当にイエス様を見た人は自分の目や手に依り頼まず、イエス様に結ばれます。イエス様を離れて生きることができず、主の愛と命に
生かされることを喜び、主の御心に従って生きるために自分の身も心も献げるでしょう。それが、「信ずる」ということです。
 世の中には、アリアリとイエス様を見たという人々があちこちにいます。しかし、見たことによってその人が、イエスさまを信じ、祈り、従う人に
かえられていくのでなければ、本当に「主を見た」とは言えません。アリアリと、ハッキリとイエス様を見ることができたらどんなにうれしいでしょうか。多くの人はそう思うでしょう。うらやましいと感じるでしょう。でも見ても
変らない人もいます。反対に、アリアリとイエス様を見ないでも「信ずる」人はおります。なぜなら神様を信ずることは、霊の出来事だからです。
神様は霊です。わたしたちも霊です。だから霊と霊が出会って火花を
散らすとき、わたしたちは霊の目で神様を見るのです。肉体の目で見えなくても、聖書を読み、祈るとき、説教を聴き、讃美歌を歌う時、
「主イエス様は、生きている。そして、このわたしを愛している」とわかるのです。とにかく見ても見ないでも、イエスさまを信じてこの世をつきぬけて、永遠の天にいますお父さまに抱かれる人は幸福です。
 今日、信仰告白にみちびかれた6歳の井上陽君はイエス様を信じて
いる幸せな神の子です。自分で祈ることもできるようになりました。
「天国はこのような者の国である」とイエス様は言われましたが、
わたしたちも幼子のように素直で真っ直ぐな信仰をイエス様にささげて
永遠の命の道を共に歩いて行こうではありませんか。      アーメン

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