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  聖霊を受けよ

   ヨハネ20:19〜23
   ヨエル2:28〜31
   使徒2:1〜13                  皆川尚一牧師
勝利のシャローム
 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を
 おそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、
 イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。
 弟子たちは主を見て喜んだ。(19〜20節)。

 その日、すなわち主イエス様が甦られた日曜日というのは、キリストの弟子たちにとって、永い永い一日であったといえるでしょう。 夜明け前にお墓参りをした女の弟子たちは、お墓が空っぽであって、天使たちが
現れて「イエスは甦られた」と言うのを聞きました。また、マグダラのマリアがそのお墓のそばに残っていて、甦ったイエス様にお会いしました。
その知らせを聞いて信じられない気持ちのままで、エマオの村に帰って行ったクレオパとシメオンにイエス様が現れました。彼らは大急ぎでエルサレムに引き返して、他の弟子たちにそれを報告しました。すると、他の弟子たちはイエス様がシモン・ペテロに現れたと二人に語ったのです。
「一体どうなっているんだ?!」
と半信半疑の人たちが多かったようです。
 それも無理がないと言えば、その通りです。何しろイエス様の十字架上の死は、あまりにも強烈な出来事として彼らの心のスクリーンに焼き付けられた映像でした。イエス様の無残な亡骸は、石造りの墓所に確かに
葬られました。彼らの信頼していた唯一の拠り所である主イエス様は殺され、彼ら弟子たちの上にも同じ魔の手が伸びてくることも、確実でした。彼らの心は恐怖のあまり外の暗闇よりも真っ暗でした。今は自分を守るためには戸を閉じて縮み上がって息を殺しているほかはなかった。
それでドアにも窓にもかんぬきや錠をしっかりと掛けてとじこもっていた
のです。
 そうした状況の中へ、閉ざされたドアを音も無く通り抜けて、甦った
イエス様が入ってこられました。そして、部屋の真中に立つと、
「安かれ」(シャローム)と言い、両手首と脇腹の傷をお見せになりました。御覧なさい!その手首には太い釘の跡が生々しく見られます。その脇腹には槍でえぐられた無残な傷跡があります。まさしくイエス様でした。弟子たちの心は歓喜で満たされました。悲しみも不安も消し飛んで、満ち満ちた平安が心に宿りました。
 「シャローム」には、「平安」という意味のほかに、「勝利」という意味が
あります。イエス様はあらゆる憎しみと迫害と苦難と死とに勝利し、
その勝利を弟子たちにもたらしたのです。これは勝利のシャロームです。  勝利の主は、今もあなたの真っ暗な心の部屋に入ってこられます。そして真っ暗な心は、パァーッと明るくなって真昼のように輝きます。そうすると何もかも絶望的と見えていたものが、一転して何もかも希望的に見えてきます。それが現実であり、真実であります。なぜなら、イエス様は
生きておられ、天においても地においても一切の権威を持っておられるからです。このシャロームは外に踏み出して行く力です。

赦しのシャローム
イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしに
なったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、
「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、
あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(21〜23節)。

 そこでイエス様は、外の暗闇の世に弟子たちを派遣すると宣言されました。ちょうどイエス様が父なる神様によって、天界からこの世に派遣されてきたように、イエス様は私たちを罪と死と不安と滅びの世の中に派遣されるのです。なぜなら私たちはイエス・キリストの十字架の死と血潮とによって罪を赦され、贖われた神の子であるからです。この世は私たちを滅ぼすことが出来ません。イエス様が永遠に生きて共におられるからです。
 「この福音を携えて、まだ罪の中にいる人々に罪の赦しと救いとをもたらしなさい」と主イエス様は命じておられます。この「安かれ」とは「赦しのシャローム」です。このシャロームは主の御口から発せられる愛のエネルギーです。それは聖霊の力です。
 イエス様は弱い弟子たちひとりひとりに、その御口から聖霊の息吹を
吹きこまれました。それは50日後に起るペンテコステの前触れでした。それはペンテコステを予告したり、象徴したりする一種のジェスチャーではありません。主の息吹を受けた弟子たちは変わりました。臆病の人は勇気の人となり、悲しみの人は喜びの人になりました。そして、敵の牙城である神殿に毎日お参りして、公に神を讃美する人になったからです
(ルカ24:52〜53)。
 しかし、もっともっと変わって行くのです。それはもっと圧倒的な聖霊の力を受けることによって、この世に対する救いの使命を果たすためです。主は言われました。
 「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、
あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」と。
 これはこの世の法律に背いた罪ではなく、神様に背いている罪のことです。ですから、罪を赦すことができるのは、神様だけです。
 かって、イエス様が中風の人を癒すときに、先ず「あなたの罪は赦された」と宣言されました。すると律法学者たちは「神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と心の中で論じました(マルコ2:1〜12)。
そうです。その通りなのです。しかし、父なる神の聖霊で満たされた人の子イエス様は、神の与える罪の赦しを告げる権威を授けられていたのです。それと同じように、私たちキリスト者も聖霊で満たされてキリストの
権威を着せられたならば、神の権威を持って、人の罪を赦す宣言を
発することができます。これは大変な権威と権能ではないでしょうか。
この権威を持つ人には、世の中に神様より他に畏るべきものはなくなります。だから私たちは聖霊を受ける必要があります。洗礼を受けた人は自動的に聖霊のバプテスマを受けているという説は誤りです。イエス様はそう言われないで、「聖霊を受けよ」といわれました。「受けよ」(ラベテ)
即ち「受け取れ」と言われたのです。神様が差し出している恵みを、自ら求めて受け取るのです。求めるものは与えられるのです(ルカ11:9)。

聖霊を受けよ
 ここで一つの実例を語りましょう。前にお話したエルサレムのシュロモ・ヒザック師のことです。彼はある日友人二人と共に祈っていました。
それは「イエスをメシヤとして受け入れないユダヤ民族にキリストの福音を語る力を与えて下さい」という熱烈な祈りでした。聖霊を求めて祈る間にユダヤ人の罪を思って心に激しい痛みを感じました。床にひれ伏して祈っていると午前4時ごろ、神の御霊が厚い雲のように彼を覆いました。彼の口から異言がほとばしり出ました。彼の上を虹の炎のようなものが通り過ぎました。彼は立ちあがろうとしましたが、床の上に倒れ、起き上がろうとしてはまた倒れ、何度も繰り返し倒れました。二人の友人が両脇から支えようとしましたが、彼らも神の力によって投げ出されてしまいました。そして、三人とも聖霊で満たされて、次の日まで倒れたまま主を讃美し続けたのです。
 その日からシュロモ・ビザック師は、聖霊充満の人となり、神のほか
何者をも畏れずに福音を語り、エルサレムに聖書センターをを造って
ヘブライ語やアラビア語の新約聖書を印刷し、配布しています。彼の家にはいまだに同胞イスラエル人から投石がありますが、畏れることなく罪の赦しの福音を語り続けています。  皆さん、私たちもこのように日本人の罪を深く覚えながら、愛する同胞日本人のために、聖霊による深い
悔い改めが起り、罪の赦しが喜ばしく宣言されるように祈りましょう。何よりも、新しく聖霊を受け、聖霊で満たされるように祈りましょう。  アーメン

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