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                                                    2004/12/26の礼拝説教
  光で満たす

   ヨハネ1:9〜14
   イザヤ60:1〜7
   エペソ5:1〜14                  皆川尚一牧師
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。
そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、
彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって
生れたのである。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての
栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた(ヨハネ1:9〜14)。

光源を見る
  わたしたちが光で満たされるためには、光源を見なくてはなりません。例えば、クリスマスイブのキャンドルサービスでは、初めにキリストを象徴するローソクの火が聖壇の上に輝いています。暗闇の中に輝く唯一の光です。その光源を見る人は光で満たされるのです。

* フランス人の無神論者アンドレ・フロサールは、20歳の時、友人と
出会うために教会のそばに立っていました。友人は間もなく教会から
出てくることになっていたのですが、なかなか出てこないので、しびれを
切らして聖堂の中へ入って行き、友人の姿を目で捜して行きました。
アンドレの目が会衆席から聖壇に移って行き、壇上に燃えるローソクの火に留まりました。その時、そのローソクの火の中から突然超自然的な光がやって来て彼を満たしました。彼はその光に目がくらみ、5歳の子供になったような自由で幸福感にあふれた霊魂に生まれ変わったのです。彼の父親は有名なフランス共産党の大立物であり、母親もインターナショナルを歌いながらデモ行進の先頭に立って赤旗を揚げて歩く闘士でしたから、アンドレの突然の入信は両親を困惑させ、同志たちからも多くの
非難が集中されました。しかし、アンドレ・フロサール自身は罪を赦された喜びと突発的に起こった自己革命によって大きく開かれた霊の世界への期待に胸をおどらせていたのです。

光源とはローソクの火だけではありません。太陽の光だってそうです。

* 昇る朝日の光を見つめて神の力に満たされ、
不治の病を癒された人もいます。

* 又、沈む夕日の光を浴びて、草原にひれ伏して神様を拝したキリスト教の伝道者もいます。 これらは皆、自然的、人工的に造られた光を通して光源を見た人たちだと言えるでしょう。しかし、それらの光は真実な光に比べて不完全なものです。

真実な光が来た
 ヨハネによる福音書第1章9節には、こう宣言されています。

「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」。

 この書き方には微妙な意味がふくまれているのです。昇る朝日の光がサーッと全ての人を同時に照らし出すような意味ではありません。どの人もどの人も、真実の光に個別に出会うように、その光が(やみの)世に
入ってきたという意味です。続けて10〜13節を見て下さい。

「彼(まことの光)は世にいた。そして、世(の人)は彼によってできた
(生れ出た)のであるが、彼を知らず(愛さず、受けいれず)にいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は
神の子となる力(特権、権能)を与えたのである。それらの人は、血筋によらず(信仰の父アブラハムと関係なく)、肉の欲や人の欲(神の子になりたいとか、神の子を産みたいとかいう人間の意思や欲望)と関係なく、ただ神によって(神から)生れたのである」。

 つまり、この真実な光と個別に出会って、光を信じた人だけが神の子に生まれ変わることが出来ると告げているのです。

* 例えば、わたしの家では父母と6人の子供たちの中で、姉の芳子が
真っ先にイエス様を信じました。そして信仰の火に燃えて、父の反対を
押し切って青山学院の神学部に入りました。姉は弟にイエス様の愛を
伝え、三男の良治が回心し、熱烈な信仰をもって弟たちの模範となり、
四男の正治と五男の尚一(わたし)が順次イエス様を信じました。
そして最後に母が62歳で入信しました。いや、最後とは言えません、
この入信のドラマは死後にまで続いているからです。手短に言えば、
我々よりも先にこの世を去った父や兄たちも黄泉(よみ)においてイエス様に出会って救われましたから、結局、だれも彼も個別にイエス様を信じて救われたのです。

 このように時間と空間とを超えた入信のドラマが展開されるために、
そして、どの人もどの人も光で満たされるために、真実の光は肉となってこの暗闇の世に宿って下さったのです。

その栄光を見た
 そのためには、まことの光の光源にわたしたちの目をじっと注ぐ
必要があります。第14節を見て下さい。

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての
栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。

 言(ロゴス)とは父なる神様の自己表現である御子のことを指しています。ですから、永遠の霊であり、言である御子が肉となってこの世に宿られた。そして「イエス」という名で現れたというのです。第4〜5節を見ると、

「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」 と記されています。

 ですから、イエス様という光源に目を留めてじっとこれを見つめていると、イエス様がただの人ではなく、「神のひとり子」だとわかって来ます。
「わたしたちは、彼の栄光を見た。それは神のひとり子としての栄光で
あって、神の恵みと真実に満ちた光であった」とヨハネと一緒にわたしたちも告白できるようになるのです。そうするとその人の中に、イエス様が
宿り、イエス様の光で満たされるようになります。その人はアンドレ・フロサールのように、神の子として生まれ変わってしまうので、やみの力に
左右されない生き方ができるように導かれるでしょう。

* 世の中には、キリスト教の光の面よりも、暗黒面をあばき出す本が
色々出ています。そして、イエス様をののしり、否定し、「キリストが歴史上存在したという証拠すらない」と断定している人もいます。

 しかし、こうした人たちは真実を語っているつもりで、実はやみの力の一部を担っているのです。やみの力、サタンの力は人の罪や汚れの
暗黒面を強調することによって、光の面を見ないように人の心を導いています。そのために自分もイエス様の光から目をそむけているので、
いつまでたっても入信することは出来ません。しかし、そういう人であっても、いつかある日、ある瞬間に神の光に出会って、捕えられてしまう
可能性があるでしょう。

 キリスト教とかクリスチャンとかに完全な真実の光を見て入信しようと
する人は見当違いの見方をしているのです。なぜなら、キリストを信じて生まれ変わったといっても、何もかも完全になったわけではありません。光を受けいれて輝いている面と、未だ清められないでひきずっている
暗い面とが、必ずあるからです。しかし、光を受けいれてイエス様と共に光へ光へと歩いて行けば、光で満たされて生きていくことが出来ます。
「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行く、これは霊なる主の
働きによるのである」(Uコリント3:18〜19)と記されている通りです。
イエス様を受けいれた人には大いなる希望があります。だから、だれかがイエス様を信じたら、自分も信じると言うのではなく、先ず、自分がイエス様を信じて光の先達者となって歩むことによって光を証しすることが
大切ではないでしょうか。少なくとも、わたしの家庭ではそうでした。そのようにして、家族が次々とイエス様の光に出会って救われて来ました。
その光の連鎖反応は、これからもずっと続いて行くことでしょう。アーメン

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