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                                           2006/12/24の礼拝説教
  心に太陽を持て

   ヨハネ1:9〜13
   マラキ4:1〜3
   エペソ5:12〜14                 皆川尚一牧師
真の光が来た
  「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。彼は世にいた。
  そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
  彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
  しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、
  彼は神の子となる力を与えたのである。
  それらの人は、血すじによらず、また、肉の欲によらず、
  また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」
  (ヨハネ1:9〜13)。


  ここに宣言されている「全ての人を照らすまことの光」とは神様の独り子イエス・キリスト様のことです。その前に出てくるバプテスマのヨハネ
は、イエス様が「彼は歴史上最大の預言者であった」と評価されましたけれども、実は「真の光」ではなく、「真の光イエス様」を証しする人であったに過ぎません。英語で言えば、イエス様は「ザ・ライト」ですが、ヨハネは
「ア・ライト」です。その意味では、釈迦も孔子もソクラテスもモハメットも
「ア・ライト」であるに過ぎません。
  クリスチャンでない人は、「それはクリスチャンの独りよがりの信仰で
ある」というかも知れませんが、そうではありません。なぜ、イエス様だけが「ザ・ライト」であるかと言えば、宇宙万物の創造主である神様が一人の人間として自らを啓示するために現れたのがイエス様であるからで
す。神様は「ザ・ライト」であり、「ザ・ライフ」であります。言い換えれば、
根源的な光、根源的な命であります。
  この福音書は、太陽のように宇宙万物を照らし、生かす神様の自己表現としての神の独り子イエス様のご誕生を告げています。わたしたちは 物事の本源に立ち帰って、そこから今の現実を見る必要があります。
途中から見たのでは、みな中途半端で相対的な価値しかわかりません。
  言い換えれば目に見えない霊である神様が「ほら、これがわたしだよ」と言って、目に見える人間の姿で現れて下さったのがイエス様です。

不信仰な世界
  「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、
  世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、
  自分の民は彼を受け入れなかった」(10〜11節)。

  真の光であるイエス様がこの世に来られたのに、世の人々が彼を知らず、そして受け入れなかったのは、なぜでしょうか。イエス様の出現から約400年前の預言者マラキは、メシアを義の太陽と呼んでいます。そしてメシアが不信仰で高慢な悪人たちを藁のように焼き尽くすという、裁き主の面と、病み、傷ついた者たちを癒す救い主の面とを兼ね備えていることを告げています。しかし、イエス様は最後の審判の前に出来るだけ多くの人々を救うためにこられたのです。それゆえ、イエス様の太陽としての力は、人々に罪を自覚させて悔い改めに導き、罪を赦し清め生かすことと、太陽である神様がその人の内部に住んで愛を満たして下さるようになるためです。言い換えれば、心にイエス様という霊界の太陽を宿す
ことであります。
  そのためには、イエス様は人間としての仮の姿をとられました。太陽をまともに見ると、人の目は焼けてしまいますから、サングラスを掛けるとか、すすで黒くしたガラスを通して見る必要があります。それと同じようにイエス様は神様としての栄光を人間のべールで隠してこの世に来られたのです。あるいは、水戸黄門が田舎親父の姿に身をやつして旅をしたようなものです。もっとも、悪人たちを散々懲らしめた末に、「この印籠が目に入らぬか!」と三つ葉葵の紋所を悪人たちに突きつけるようなことはなさいませんでした。ただ、「耳のあるものは聞くが良い」とか、「私を見て信じる者は幸せである」と言われただけです。それでも信じる人々は生まれました。なぜなら、神のみ言葉を聞き、また見る人の心に神の霊が働くからです。 何百年たっても、何千年たっても、聖書を読み、説教を聴く人の心にイエス様の霊が働くのです。そのためには祈ることが大切です。

神の子となる力
  「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、
  彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、
  血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、
  ただ神によって生れたのである」 (12〜13節)。

  この「神の子となる力(エクスーシア)」とは、「神の子としての権威、
権能」という意味です。つまり、「イエス様の権威、権能」を与えられるのです。これは大変なことではないでしょうか。言い換えれば、太陽の子として輝いて生きることであります。今、その実例を話しましょう。

仏教からキリストへ
 富山市に蓮如上人ゆかりの浄土真宗の有名なお寺があります。その
18代目の後継ぎとして生まれた亀谷凌雲(かめがい りょううん)という人のことです。彼は金沢四高から東大に進むという知的レベルの高い人でしたが、自分の罪と汚れに悩み、真剣に救いを求めて阿弥陀如来の救いを信じて、煌々と輝く阿弥陀仏に帰依しました。しかし、何かまだ足りぬ思いがして、キリスト教の良いところを取り入れて仏教の布教につとめましたが、どうしても満足できないものが残りました。そして祈りつつ聖書を読み進むうちに仏教にはない受肉の神、イエス・キリストの煌々と輝く光を見ました。しかし、由緒ある寺の後継ぎとしての立場とキリスト信仰の板ばさみになって、ある日ついに、阿弥陀仏もキリストも完全に捨てて無になる決心をしました。すると彼の心の空に煌々と輝く太陽のごとくに現れたのは、イエス・キリストただお独りであったということです。

太陽信仰の歴史
  そもそも、神や仏を太陽として崇める信仰は世界中にあります。それは人類の遥かなる過去から続いているものです。日本では天照大神
(アマテラスオオミカミ)を崇める信仰があります。それは太陽信仰と言っても良いのですが、実は天地万物の造り主の象徴として太陽を拝むのです。天皇は天照大神の子孫ですから、日嗣の御子、とか天子とか呼ばれます。そして、男子は彦(日の子)、女子は姫(日の女)と呼ばれます。

  沖縄では、1万6千年前に始まった琉球王朝の王を「太陽(テダ)の子(コ)」と言いました。そして、沖縄の一番西の端にある与那国島の海底には巨大な太陽神殿の遺跡が沈んでおり、琉球大学の木村政昭教授らの研究が進められています。それによれば、二万年前までは沖縄も日本列島も皆大陸の一部として全部陸続きであったということです。しかも、
この太陽神殿は太平洋の真ん中にあったという伝説のムー大陸の一部ではないかと見られています。ムー大陸は西暦紀元前7万年から1万2千年頃まで栄えて、罪のために自滅して、海に沈んだ大陸ですが、そこでは天地創造の神を「ラア」と呼んで礼拝してました。「ラア」とは「太陽」という意味です。その信仰はエジプト文明にも引き継がれていて、「ラア」を祀る神殿が中心でした。旧約聖書のヤコブの子ヨセフはラア神の大祭司の娘を妻としていました。
  このように人類は太陽を象徴とする創造神の信仰を超古代から受け継いで来たのです。これは最も普遍的な信仰ですが、ただ太陽を拝むだけでは、神様の御心を知ることや、神の子としての権威、権能を持つことは出来ません。特に、神様に背いて自己中心になった人間の罪や汚れが赦され、清められ、神の子として救われるために人は皆イエス様を心に迎える必要があります。

心に太陽を持て
  今は、人類世界はムー大陸に似て信仰的にも道徳的にも末期的な
退廃した情況にあります。このような悩み、苦しみに打ち勝つ力はわたしたちの心に太陽を持つことです。最後に次の詩を心に留めて下さい。  

        「心に太陽を持て」  フライシュレン作

        心に太陽を持て
        嵐が吹こうと 吹雪が来ようと
        天には黒くもが 地には争いが
        絶えなかろうと
        いつも、心に太陽を持て

        唇に歌を持て 軽く朗らかに
        自分のつとめ 自分の暮らしに
        よしや苦労が絶えなかろうと
        いつも、唇に歌を持て

        苦しんでいる人 悩んでいる人には
        こう励ましてやろう
        「勇気を失うな
        唇に歌を持て
        心に太陽を持て」                    アーメン

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