トップページ >> 説教 >> イエスの勝利
                                                  2003年4月20日の礼拝説教
  イエスの勝利

   Tコリント15:50〜58
   イザヤ25:6〜9
   ルカ24:1〜9                   皆川尚一牧師
イエスの勝利
  兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。
  肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないもの
  を継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。
  わたしたちすべては、眠り続けるのではない。
  終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
  というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、
  わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは
  必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを
  着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、
  この死ぬものが死なないものを着るとき、
  聖書に書いてある言葉が成就するのである。
  「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、
  どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
  死のとげは罪である。罪の力は律法である。
  しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストに
  よって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
  だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、
  いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。
  主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、
  あなたがたは知っているからである(50〜58節)。

 今、わたしたちはこの礼拝の中で、「キリストは甦られた、ハレルヤ!」とかちどきの声をあげました。キリスト・イエス様は罪と死とサタンの力に打ち勝ってよみがえられたのです。もはやイエス様に勝つことのできる
ものは何もありません。キリストは永遠に天と地と陰府と地獄とを支配
する王の王、主の主となられたのです。ハレルヤ!
 ところで、このイエス様の勝利はわたしたちに
どういう関係があるのでしょうか?57節を見て下さい。

勝利を賜わった
 「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」とあります。 つまり「イエスの勝利」がわたしたち信者ひとりびとりにあたえられるのです。言い換えれば、わたしたちは皆イエスの勝利に与るのです。 ここでは、それがハッキリわかるのは終りのラッパが鳴りひびく時だといっています。その時
わたしたちは神様の力によって、この朽ちて灰になる肉体から、永遠に生きる霊体へと変えられるのです。イエス様が約2000年前によみがえられた時、墓の中に収められていた肉の体は霊の体に変化してお墓の中から出て来られました。瞬間移動も自由であり、壁を通り抜けて弟子たちの集いの中に現れました。又、500人以上の弟子たちに対して、同時に現れました。弟子たちと一緒に食事をしたり、教えたり、ガリラヤ湖畔を散歩したりして、最後にオリブ山から天に昇って行かれました。これらは復活後40日の間に弟子たちが見た出来事であります。これによって
主イエス様はご自身が永遠に生きることを証明し、そしてわたしたちも
イエス様に続いて永遠に生きることをお示しになったのです。それゆえ、死は勝利に呑まれてしまったのです。死のとげと呼ばれる恐怖は抜き
取られました。死別の悲しみも一時のことで、再会の喜びが死の彼方に待っていることをイエス様は教えてくださったのです。

これは主である
 この出来事によって、イザヤの預言は成就しました。

「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、
その民のはずかしめを全地の上から除かれる。〜。
その日、人は言う『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。
わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう』と」
(イザヤ25:8〜9)。

 この救いの証しとして、肉の体へのよみがえりが 時折経験される
のです。
 * 例えば1978年に、ソウル純福音教会の趙繩(チョウ・ヨンギ)牧師の次男サムエル君のよみがえりがありました。サムエル君は当時高校生で空手部の仲間20名と一緒に食べた弁当の中に殺虫剤が入って
いたので意識不明の重態となりました。医師はもう手遅れで助からないと言いました。父親の趙牧師は過去のすべての罪を赦して下さいと祈り、必死で叫び求めた結果、この祈りは聞かれたという確信が与えられたので、命じました、「サムエル、イエス・キリストの御名によって命ずる、立ち上がれ!!」と。すると突然息子がパッと立ち上がったのでびっくりしました。サムエル君の言うのには、自分はイエス様に連れられて美しい世界を歩いていましたが、イエス様から「あなたのお父さんがあまりに求めるので、もうこれ以上あなたを連れて行けない。お帰りなさい」と言われ、
自分の肉体の中にもどって来た、ちょうどその時お父さんが「サムエル、立ち上がれ!」と叫んだのでパッと立ったのですという事でした。
「ではそのイエス様はどこにいるのか」と尋ねたら、「今ここにいらっしゃるのです」と息子は答えました。それで肉の目には見えない主イエス様を
拝したそうです。他の20名の若者は皆死にましたが、イエス様を信ずるサムエル君は父親の祈りによって甦ったのです。
 このように、今イエス様を信じているわたしたちは、イエス様を通して
天国に直結して生きているのです。「見よ、これはわれわれの神である。これは主である。わたしたちはその救を喜び楽しもう」ということが出来ます。何と幸せなことでしょう。この世から天国は始まっています。天にいます一人の主イエス様が何十億人ものクリスチャンの肉体の中に同時に住んでいるのですから、これほど不思議なことはありません。
今の人生が大切なのです。

全力で生きる
「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を
注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦が
むだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(58節)。

 ここに「あなたがたの労苦がむだになることはない」とありますが、
この「むだ」(ケノス)というギリシャ語は「からっぽ」「むなしい」という意味です。どんなに充実したように見える分秒きざみの多忙な生活が、
ある日突然、「死」によって終止符を打ちます。そうすると、どんなに頑張って生きてみても最後に全部むだであったとわかったらどうでしょうか?物の見方、在り方で人生の価値が変わって来ます。「主に在って」という一句が重要なキーワードです。
 * 相模大野開拓伝道の初めの頃、わたしの片腕として協力してくれた内藤兆吉さんの友だちに水野さんという人がいました。隣のホーリネス
教会の信者で熱心なクリスチャンでしたが、その人が天に召された時、その奥さんが言いました、「なんぼ熱心にキリストを信じたって、死んでしまえばおしまいだ」と。「主に在って」生きた水野さんの人生は天に宝を
積む価値ある人生でしたが、「主に連ならない」奥さんには全てがむだに見えたのです。
 皆さん、この意識の違いは大きいと思います。イエス様は十字架に
かかって死を迎えられた時、「すべてが終わった」(テテレスタイ)と
いわれました。それは使命を全うしたという満足の言葉です。
わたしたちは天からこの世に入って来て生まれるときひとりびとり使命を授けられています。わたしたちはカレンダーや時計の針で刻まれた時間で生きているのではありません。
神の愛をこの世にもたらすための良い働きに力を注ぎましょう。 アーメン

トップページ >> 説教 >> イエスの勝利